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灰色の記憶

日記 5/7-5-13

5/7(土)

置き換えができないものは真理ではない。同様に、視座によって外観を変えないものは実体をそなえた物質ではなく、実体を装っただまし絵にすぎない。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p98)



愛なき偶像崇拝、これ以上におぞましく悲しいものがあるだろうか。

(p185)




5/8(日)

・ハンナ・アレント『責任と判断』(中山元ちくま学芸文庫 2016.8)

ウィトゲンシュタイン『『秘密の日記』 第一次世界大戦と『論理哲学論考』』(丸山空大訳 春秋社 2016.4)

・ワレリイ・ブリューソフ『南十字星共和国』(草鹿外吉訳 白水Uブックス 2016.3)

を借りた。




5/8(月)

見守るという意思及び行為は「あなたのことを決して忘れない」という切実な愛を前提としている




5/9(月)

病院にいった。




5/10(火)

木村敏『時間と自己』(中公新書 2001.6)を買った。




5/11(水)

しかしわたしにもっとも大切だったのは言語でした。そしてヨーロッパ文明のために何かを意識的に行ったことがあるとすれば、それはわたしがドイツから逃げだしたときから、母語としてのドイツ語を決して失わないようにしようと決意していたことでしょう。どんな言語を使えるようになったとしても、使わざるをえなくなったとしても、それを母語とはしないという固い決意をいだいていたのです。

(ハンナ・アレント『責任と判断』中山元ちくま学芸文庫 p10-11)

アゴタ・クリストフの自伝に出てきた『敵語』という言葉を思い出す。




5/11(水)

そして公的に名を知られること、すなわち名声を獲得することさえ、ハイデガーのいう本来性の欠如、「彼ら」によってみずからを汚すこと、ベルクソンのいう「社会的な自己」によってみずからを汚すこと、オーデンの「忌まわしい機械的な金切り声」という俗っぽさによって、みずからの言葉を腐敗させることであるかのように感じてきたのです。

(p19)



わたしたちは法の知識をもたずに、どのようにして善と悪を区別するのでしょうか。そしてまったく同じ状況に身をおいていないのに、どのようにして、他者について判決を下すのでしょうか。

(p38)



道徳の問題が発生するのは、「強制的同一化」の現象が発生してからのことです。恐怖に怯えた偽善からではなく、歴史の〈列車〉に乗り遅れまいとする気持ちが、早い時期に生まれるようになってからです。この気持ちが生まれたからこそ、生活のすべての分野において、文化のすべての領域において、公的な人物の大部分がまさに一夜にして、自分の意見を変えたのです。それも信じられないほど簡単に意見を変えたのです。それは、生涯にわたる友愛の絆を断ち、破壊したのでした。要するにわたしたちを困惑させたのは、敵の行動ではなく、こうした状況をもたらすために何もしなかった友人たちのふるまいだったのです。

(p42)



道徳という観点からは、何も罪を犯していないのに自分が有罪だと感じるのは、実際に罪を犯しておきながら、自分は無罪だと考えるのと同じように、間違ったことなのです。

(p48)



集団的な罪とか、集団的な無実のようなものはありません。罪と無実の概念は、個人に適用されなければ意味をなさないのです。

(p49)



安寧とは危険の不在を意味しない。この世界に危険はつきものだから。そうではなく、危機にさいして首尾よくきりぬける合理的な見込みを意味する。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p237)



はかないものへの憐れみはつねに真に美しいものへの愛とむすびつく。真に美しい事象は永遠の存在を保証されるべきなのに事実はそうでないことを、われわれは切実に感じとっているからだ。

(p247)




5/12(木)

どんな絶望的な状況においても、強さと力をわずかながらも残すことができるのは、まさに自分の無能力をみずから認めることによってなのです。

(ハンナ・アレント『責任と判断』中山元ちくま学芸文庫 p75)




5/13(金)

発作的に詩を書く




5/13(金)

神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房 2004.10)を買った。




5/13(金)

部分的な喪失は、存在にとって生き残りながら死ぬ方法だ。喪失の恐怖から逃れようとするなんて、どうかしている。欲望は、できる限りの恐怖を呼び求める───耐えられなくなる限界まで。我慢の続く限り、死に近づかなければならない。卒倒することなく───だが必要ならば、まさに卒倒しながら。

……そして必要ならば、まさに死にながら。

(ジョルジュ・バタイユ『有罪者 無神学大全』江澤健一郎訳 河出文庫 p180)



道化がいつまで續くのだ。俺は自分の無邪氣に泣き出したくなる。生活とは風來の道化である。

(『ランボオ詩集』小林秀雄訳 創元ライブラリ p29)

日記 4/30-5/6

4/30(土)

梶井基次郎全集』(ちくま文庫 1986.8)を買った。




4/30(土)

僕は僕が苦しんでゐるのを人に見られることを恐れる。それなのに、自分の傷を自分の指で觸って見ずにゐられない負傷者の本能から、僕は僕を苦しませてゐるものをはつきりと知りたい欲望を持つた。


僕はあらゆる思ひ出を恐れ、又、僕に新しい思ひ出を持つてくるやうな一つの行爲をすることを恐れる。そのために僕は僕自身の影で歩道を汚すより他のことは何もしようとしない。


時間は苦痛を腐蝕させる。しかしそれを切斷しない。僕は寧ろ手術されることを欲した。

(堀辰雄「不器用な天使」)



僕はしみじみと、愛し合ふことは、苦しめ合ふことであるのを感じた。

(堀辰雄「死の素描」)



われは死者をもてど、彼等をして去るがままにす……

(堀辰雄「生者と死者」)



孤獨に、絶えず脅かされつつ、さすらひゆく
われには、未來もなく、屋根ももはやあらじ。
われはひたすら恐るなり、家も、日も、年も、
汝がためにわれの苦しみし……

(アンナ・ド・ノアイユ「生けるものと死せるものと」堀辰雄訳)



​───どちらが相手をより多く苦しますことが出來るか、私たちは試して見ませう……

(堀辰雄「聖家族」)



「あの方さえお為合せになっていて下されば、わたくしは此の儘朽ちてもいい。」
そう思うことの出来た女は、かならずしも、まだ不為合せではなかった。

(堀辰雄「曠野」)




5/1(日)

吹く風をたもとに分かつ別れ哉

(「藤野古白句集」)




5/2(月)

ハイデガー存在と時間(一)』(熊野純彦岩波文庫 2013.4)

ハイデガー存在と時間(二)』(熊野純彦岩波文庫 2013.6)

ハイデガー存在と時間(三)』(熊野純彦岩波文庫 2013.9)

ハイデガー存在と時間(四)』(熊野純彦岩波文庫 2013.12)

トーマス・オーウェン『黒い玉 十四の不気味な物語』(加藤尚宏訳 創元推理文庫 2006.6)

を買った。




5/3(火)

小説を書いた




5/4(水)

多和田葉子『聖女伝説』(ちくま文庫 2016.3)を買った。




5/5(木)

つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々な汚点を見出すよりも、投捨てられた襤褸の片にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実が却て沢山に摘み集められる。

(永井荷風『濹東綺譚』)




5/6(金)

実在しない人を愛してはいけないなどというきまりはない​。愛は虚構を実在にする。

日記 4/23-4/29

4/23(土)

懐疑は独白と化した自己自身であり、「自分」も他者であるほかはないから、自己自身との対話である。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p498)




4/24(日)

死にたい




4/25(月)

理性によって決められたことは理性によって行使されなければならない。「こんな奴死刑にすればいいのに」と反射的に口走るような人間に立法者の素質はない。仲介者の素質もない。法やルールを取り決める、取り扱う場において、冷静でない者を話し合いに加えてはならない。本能で、感情的になって法を行使する(しようとする)のは、人殺しの心理と全く変わらない。




4/25(月)

皆川博子『死の泉』(ハヤカワ文庫JA 2001.4)を買った。




4/25(月)

愛を得るためには命を危険にさらさなければならないように思えた。救われるには、死の淵に立たなければならないように思えた。



「芸術は幸福からは決して生まれないの」



話に聞くところでは、セックス中毒者は絶え間ないセックスによって生まれる生体の化学反応に依存するようになる。オーガズムは全身にエンドルフィンを行き渡らせ、エンドルフィンは苦痛を癒し、鎮静効果をもたらす。セックス中毒者は実はセックスの中毒ではなく、エンドルフィンの中毒だ。セックス中毒者の体内のモノアミン酸化酵素量は平均レベルより少ない。セックス中毒者が本当に渇望しているのは、危険、熱中、リスクおよび恐怖を引き金に放出されるペプチドフェニルエチルアミンだ。

(チャック・パラニューク『チョーク!』池田真紀子訳 早川書房 2004.2)




意識がつねに世界によって占領されていると、きみが何を考えているか、誰も気にする必要がなくなる。すべての人の想像力が退化していると、誰も世界に脅威を与えない。

(チャック・パラニューク『ララバイ』池田真紀子訳 早川書房 2005.3)




「あたしを愛せないなら、あたしのこれまでの人生を話して」

(チャック・パラニュークインヴィジブル・モンスターズ池田真紀子訳 早川書房 2003.5)




4/26(火)

ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅱ 1953-1973』(青木隆嘉訳 法政大学出版局 2017.5)

ハンナ・アーレント『政治の約束』(高橋勇夫訳 筑摩書房 2008.1)

ホルヘ・フランコ『外の世界』(田村さと子訳 作品社 2018.2)

を借りた。



​───苦しんだり耐え忍んでいる者にとって人生はすばらしいものだ。あなたの人生が不毛の砂浜であり苦悩や不安や心の痛みに満ちているのを知っている私が、より多くの幸せをあなたにあげよう、鳥の巣には生い茂る木々の緑を、日没には夕暮の茜雲を。

(ホルヘ・フランコ『外の世界』(田村さと子訳 作品社 2018.2)




4/27(水)

自身が根こぎにされた者は他者を根こぎにする。根をおろす者は根こぎをしない。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p71)



過去から顔をそむけ、未来にのみ思いをはせてもむなしい。そもそも未来に可能性を認めることは危険な幻想である。未来と過去を対立させるのは愚かである。未来はなにも生みはしないし、なにも与えない。未来を築きあげるべくすべてを与え、ときに生命さえも捧げるべきは、われわれ人間のほうだ。ところで、与えるためには持っていなければならない。しかるに、われわれは自分が過去から継承し、吸収し、同化し、再生した宝のほかには、なにひとつ与えるべき生命、与えるべき活力を持ちあわせていない。人間の魂が欲するさまざまな欲求のなかで、過去ほど死活にかかわるものはないのだ。

(p75-76)




4/28(木)

頭痛、倦怠感




4/29(金)

ヘミングウェイ『移動祝祭日』(福田陸太郎訳 土曜文庫 2016.11)

堀辰雄風立ちぬ・美しい村』(新潮文庫 1951.1)

皆川博子『光の廃墟』(文春文庫 1998.7)

皆川博子『たまご猫』(ハヤカワ文庫JA 1998.1)

皆川博子『鳥少年』(創元推理文庫 2013.10)

を買った。




4/29(金)

いったん思索し始めると、さまざまな思想が次々に現れて、命の血を吸い尽くす。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅱ 1953-1973』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p93)



情念と思考との違いは、情念が繰り返しによって台無しにされることである。苦しみの起源が同情(=苦しみを共にすること)であっても、同情は苦しみを台無しにしてしまう。

(p97)



言葉が思考と行為を結びつけ媒介する。思考の限界は、沈黙に圧倒されて言葉を失った真理の直観であり、行為の限界は無言の暴力である。

(p98)



しかしぼくらを
消滅の危険から救ってくれるのは
ぼくらの心臓にしっとりとまといつき
はびこる冷い雑草の 厚い覆いだ

(ホフマンスタール『思念の魔』川村二郎訳)



「誰だ、死にもしないくせに
死者の王国を横行闊歩する奴は?」

(ダンテ・アリギエーリ『神曲』地獄篇第八歌 平川祐弘訳)

日記 4/16-4/22

4/16(土)

心情の倫理は、決して行為を判定することはなく、行為をもたらす意志だけを判定する。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p179)



(モンテスキュー『法の精神』)
第一篇第三章「戦いの目的は勝利であり、勝利の目的は征服であり、征服の目的は維持である」。
(これはもう必ずしも正しくない。戦争の目的は勝利を犠牲にしても抹殺することである。勝利の目的は勝利が無意味になっても絶滅することである。つまり征服の目的は、自分が所有するものを保持できなくなっても、現実を全体主義的虚構に永続的に変形することなのである)。

(p195)



長い間ずっと孤独だと、いずれは絶望と孤立に陥る。───その理由は簡単だ。ひとりでは抱擁できないからである。

(p217)



古代や西洋では、生命が不可欠なものに直接結びついている者は自由ではないと言われていた。われわれは、他者を抑圧したり搾取したりする者、すなわち、身体的生命にとって不可欠なものも含むすべてを自分だけの力で得ていない者は自由ではないと言うのである。

(p239)



落下が空中で止まる者にのみ
大地は開かれる。
大地が輝かしく立ち現れる。
飛翔が失敗した者には
大地は大きく深淵を開く。
大地が彼を胎内に引き戻してしまう。

(p246)



私は
わずかばかりの
事物の中の
過剰から生まれた
一つにすぎない。
心配ならば
私を腕に抱き
不安がすっかり
消えるまで
揺すっておくれ。

(p263-264)



真理は啓示としてのみ明らかになるという点にこそ、あらゆる啓示宗教の真理がある。

(p264)




4/17(日)

藤の花がみたい


人が多い場所にいると(想像するだけでも)気持ちが悪くなる、たとえば日曜の食料品売り場など




4/17(日)

技術的知識という現代的意味での知識と思考とが、真実、永遠に分離してしまうなら、私たちは機械の奴隷というよりはむしろ技術的知識の救いがたい奴隷となるだろう。そして、それがどれほど恐るべきものであるにしても、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考なき被造物となるだろう。

(ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳 ちくま学芸文庫 1994.10)



しかし癪にさわったのは、口汚ない文句ではなくて声であった。そうだ、あの声だ。あの場合彼女がよしんば意味のない言葉をしゃべくっていたとしても、或は美くしい詩を朗読していたとしても、おれはまったく同一の憤りを感じたにちがいない。

(モーリス・ルヴェル『ピストルの蠱惑』田中早苗訳)




4/18(月)

「奴等にはあれが見えなかった。俺にはちゃんと見えたのだ。どうしてあれが生かして置けよう。そのくらいなら死んだ方がましだ。」

(フセーヴォロド・ガルシン「紅い花」)



「君がいることを望む」。君が本来の君のままであることを、君が君の本質通りであることを私は望むという意味ならば、───それは愛ではない。それは自分の正しさを証明するという口実のもとに、他者の存在をも自分の意志の対象としようとする支配欲である。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p358)



愛または沈思黙考を望むなら、あらゆるものとすべての人々を見捨てなければならない───つまり、見殺しにしなければならない。

(p361)



ニーチェは、人間は生きている限り、本質的なものによって破壊されるほかない存在だと結論した。

(p390)



もう理解できないという場合には、根をおろせない、表面にとどまるよう定められていると言っているようなものだ。そういう浅薄さが全体主義的支配においては組織化されて、無意味な不幸を作り出し、無意味な苦悩を作り出すのであり、それと正確に対応しているのが、世界の他の部分で蔓延している無意味な幸福の追求にほかならない。

(p423)



根源悪はあっても根源善は存在しない。根源善が望まれる場合には、いつも根源悪が発生する。人間の間では、善も悪も関係においてしか存在しない。「根源性」とは相対性を破壊し、関係そのものを破壊するもののことだ。人々や人々の関係を超えたところに望まれるもの、それはすべて根源的な悪である。

(p433)




4/18(月)

詩を8つ書いた




4/19(火)

・聖アウグスティヌス『告白(上)』(服部英次郎訳 ワイド版岩波文庫 2006.7)

ポール・ヴァレリームッシュー・テスト』(清水徹岩波文庫 2004.4)

・ベルマン・ブロッホ『夢遊の人々(上)』(菊盛英夫訳 ちくま文庫 2004.9)

シュティフター『晩夏(上)』(藤村宏訳 ちくま文庫 2004.3)

・『ラフォルグ抄』(吉田健一講談社文芸文庫 2018.12)

を借りた。



悪が人類のために有害であるという理由で善をなす者は、倫理の段階のかなり低いところに立っているのであって、もし罪悪が人類や自己自身に役立つとなれば直ちに罪悪に手を出すであろう。

(シュティフター『晩夏(上)』藤村宏 ちくま文庫 2004.3)



要するに、私は、「貴方を愛しています。」と言おうとして、
私自身というものが私にはよく解っていないことに
気付いたのは悲しいことだった。

(『ラフォルグ抄』吉田健一 講談社文芸文庫 2018.12)




4/20(水)

期待していた楽しみが現実になったのに、それに失望させられることがあるが、その原因は、未来に対して期待を寄せていたからである。そして、未来はひとたび現前すると、それは現在になる。未来が、未来であることをやめずに、現前してくれることが必要なのだろう。そんなことは不条理であり、ただ永遠のみがそこから救い出してくれる。

(シモーヌヴェイユ重力と恩寵』田辺保 ちくま学芸文庫 1995.12)



どこへ行っても、ぶつかるのは過ぎ去った幸福の残酷な思い出でした。

(シャルル=ルイ・ド・モンテスキューペルシア人の手紙』田口卓臣 講談社学術文庫 2020.4)



人も物も、人形劇の舞台から切りとられたみたいに、どこか無関心で、生気がなく、機械的だった。

(ムージル『寄宿生テルレスの混乱』丘沢静也 光文社古典新訳文庫 2008.9)



自分にとって、世界は美しく希望に満ちた場だと思えることもよくあるけれど、時には何もかもが黒々と侘しく感じられるのだと母は言った。母はそのことを、それまで夫以外の誰にも話したことがなかった。私が二人目だった。

(エリック・マコーマック『雲』柴田元幸 東京創元社 2019.12)




4/20(水)

孤独になりたいだけなら他者と関わるのをやめればいいだけだが、より孤独を深めたいなら、他者と関わるのを増やすといい




4/21(木)

『越年 岡本かの子恋愛小説集』(角川文庫 2019.8)を買った。




4/21(木)

一緒に死にたくなってしまう絶望に
追いやられた最初の
幸福な夕方、
我々は体が震えているのをどうすることも出来ない。……



波止場は
海に対して築かれ、
私の肉体は
愛を堰いている。

(『ラフォルグ抄』吉田健一 講談社文芸文庫 2018.12)




4/22(金)

説得には、「互いに」が欠けているとともに、同じ事柄を知ろうとする共同も欠けている。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p486)

10万円シミュレーション

10万円あったら10万円分の本を買うと思います


何を買うのか、シミュレーションしてみましょう


【ルール】

・全集を除く(全一巻はok)


で、とりあえずやってみましょう


start


・関根正雄訳『旧約聖書』(教文館) ¥17600


・『巴里幻想譯詩集』(国書刊行会) ¥8250


・『ジョージ・オーウェル日記』(白水社) ¥9240


・『英国怪談珠玉集』(国書刊行会) ¥7480


ペソア『不安の書【増補版】』 (彩流社)¥5720


カフカ『ミレナへの手紙』(白水社) ¥3630


・『ゴッホ作品集』(東京美術) ¥3300


・バルト『喪の日記』(みすず書房) ¥3630


・『海の上の少女 シュペルヴィエル短篇選』(みすず書房) ¥2640


マンディアルグ『城の中のイギリス人 愛蔵版』(白水社) ¥3960


金子光晴『老薔薇園』(烏有書林) ¥3080


グラビンスキ『火の書』(国書刊行会) ¥
2970


・『プリーモ・レーヴィ全詩集』(岩波書店) ¥3080


・『モンス・デジデリオ画集 復刻版』(エディシオン・トレヴィル) ¥4180


・『チリの地震 クライスト短篇集 新装版』(河出文庫) ¥880


・カヴァン『愛の渇き』(文遊社) ¥3080


・カヴァン『草地は緑に輝いて』(文遊社) ¥2750


・カヴァン『ジュリアとバズーカ』(文遊社) ¥3080


・カヴァン『鷲の巣』(文遊社) ¥2860


・カヴァン『われはラザロ』(文遊社) ¥2970


・カヴァン『あなたは誰?』(文遊社) ¥2750


・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』(文遊社) ¥2860



計22冊 ¥99990
でした



10万円欲しいなあ



お疲れ様でした

日記 4/9-4/15

4/9(土)

3年前の今日、詩を書き始めた。




4/9(土)

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』(訳:冨原眞弓 岩波文庫 2010.2)

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(下)』(訳:冨原真弓 岩波文庫 2010.8)

福永武彦『夜の三部作』(P+D BOOKS 2016.8)

倉橋由美子夢の浮橋』(P+D BOOKS 2017.8)

を買った。




4/10(日)

昨日買ったヴェイユを少しずつ読み進めている




4/11(月)

苦悩を知らない魂は、無に等しい。

(皆川博子『薔薇密室』講談社 2004.9)




4/12(火)

選択の可能性が共益をそこなうまでに拡がりすぎると、人間は自由を愉しめなくなる。無責任、幼児性、無関心といった避難所、倦怠しかみいだせない避難所に逃げこむか、大きすぎる自由をもてあまし、自分がいつなんどき他人に害をおよぼすかと戦々恐々として責任の重さにうちひしがれるか、このいずれかを強いられるからだ。このような場合、自分は自由を所有していると勘違いし、あまつさえこの自由を享受していないと感じるので、あげくに自由など善ではないと考えるにいたる。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p23)



服従は魂に必要な糧であり、服従を決定的に奪われた人間は病に蝕まれる。だれにも釈明する必要のない最高指導者に統治される集団は、ひとりの病者の手におのれの命運をゆだねているのだ。

(p24)




4/13(水)

ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』(青木隆嘉訳 法政大学出版局 2017.5)を借りた。

大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』(新潮文庫 1986.2)

開高健『パニック・裸の王様 改版』(新潮文庫 2010.4)

吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫 1982.5)

辺見庸『眼の探索』(角川文庫 2001.3)

を買った。




4/14(木)

「〜的」「〜のように」「〜のようだ」などと言うとき、その「〜」に些かの偏見も含まれていないことがあるだろうか?




4/14(木)

赦しや赦しと称されるものは、実際は芝居であって、片方は優越しているふりをし、他方は人間にはできそうもないことを求めるふりをする。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p5)



和解とは、起こるかもしれない事柄を度外視して現実と和解することである。

(p6)



自分の声を神の声と偽って裁いたりしない場合に初めて、神の怒りや神の恵みに従うと称する報復や赦しと無縁な生活を維持することができる。

(p9)



人が心を決めたら、鉋をかけると鉋屑が出るというわけで、もう友人の手の出しようはない。もう何もかも捨てようと決め、すべてを犠牲にしてしまっているからだ。何もかも屑なのだ。

(p16)



幸福は突発的に訪れるから、幸福によって打ちのめされる恐れがある。不幸は動きがのろいので、いつでもそれに合わせて対応する余裕がある。

(p20)



政治的動物。これでは人間の中に人間の本質の一部として、政治的なものが存在しているかのようだ。あいにくこれは正しくない。単数の人間は非政治的なものだからだ。政治は人々の〈間の領域〉に、つまり人間の外部に生じる。それゆえ真に政治的な実体というようなものは存在しないのだ。政治は〈間の領域〉に生じ、関係として確立する。このことをホッブズは心得ていた。

(p24)



個人のものがもはや存在しないところでは、確かに法律だけが完全に専制的に支配することができる。そこには予見されていなかったものはもはや何一つ存在しないからだ。

(p52)



単数の人間が哲学のテーマであり、複数の人間が政治のテーマだとすると、全体主義とは政治に対する「哲学」の勝利のしるしである───「哲学」に対する政治の勝利ではない。哲学の究極的勝利は、哲学者たちの最終的な絶滅にほかならないようである。おそらく哲学者たちは「余分なもの」になってしまうことだろう。

(p63)



制度を生み出した出来事が制度によって使い果たされるように、恋愛という出来事も、社会制度としての結婚によってすり潰されてしまう。出来事にもとづく制度が続くのは、出来事が完全に使い果たされてしまわないうちだけである。そのように使い果たされないのは、法律にもとづく制度に限られている。結婚は出来事と制度の点では常に二義的であるが、結婚が解消できないとされていた限り、結婚は本質的に愛の出来事でなく法律にもとづくものとされ、まさに一つの制度とみなされていたのである。
その後、愛の制度となったが、結婚は当時の大半の制度より少し脆いところがあった。愛が制度化されると、愛は完全に故郷も保護も失ってしまったからだ。

(p70)



傾向性が活動を停止するところで、道徳が始まる。義務と傾向性を対立させるのは全く無意味だ。なぜなら、傾向性が義務化されない限り、義務は現れないからである。傾向性が働いている限り、義務化された状態は義務でなく傾向性の延長のように傾向性には感じられるだろう。傾向性が活動を停止して初めて、義務が発生する。道徳も道徳的思考も、生気を欠き亡霊じみているのはこのためだ。活動が停止して初めて道徳が登場する。しかし、心情が荒廃しステップ化する危機にあっては、義務と道徳以外に逃げ道はない。荒廃が支配している限り、道徳には正当性があり、荒廃の支配が消えても、残念ながら、道徳には正当性がある。支配者がいない砂漠は、支配者がいる砂漠以上に恐ろしいものだからである。

(p77)



目的・手段の連鎖から逃れるために人間が自己目的とされたまさにそのとき、人間以外のすべての事物、自然全体は手段に貶められてしまった。その後、世界の冒瀆、世界の俗化は償いようがなかった。

(p81)



人間が自然の援助手段や救済手段───幼児死亡、洪水、旱魃、疾病、要するに大量死亡───をもはや認めようとせず、大地が供給できるより多くの食料を求めることは、彼らが自然に反するものとなったこと、大地はもはや彼らの故郷ではなくなったことを物語っている。これは現代世界における根本的な故郷喪失である。

(p83)



われわれが何者で、どう思われようと
誰に関わりがあろう
われわれが何をなし、どう考えようと
誰が反感を抱こう

燃え上がる炎に包まれ
焼けただれた空の下で
われわれの世界が
道を見失っているのだ

(p84-85)



製作における破壊の要素。樹木は伐採されて木材となる。物質であるのは樹木でなく木材だけだ。つまり物質はすでに人間の生産物であり、物質は破壊された自然なのである。「人間の所産」が出来上がるのは、人間に物質として与えられているかのように、人間が生きた自然を取り扱い、つまり人間がそれを自然として破壊することによる。木材は樹木の終わりだ。
神が創造したのは単数の人間であって、複数の人間でも民族でもなかったが、神が創造したのは自然であって物質ではなかった。
神が無から創造するとすれば、人間は被造物を破壊することによって創造する。その破壊によって、被造物は与えられたものへと変化し、創造された自然は与えられた物質になる。神は樹木を創造したが、人間は樹木を破壊して、木材を手に入れる。木材にはすでにテーブルといった目的が予示されている。樹木にはそういう目的を示すものは一つもない。

(p86)



心がここで捉えるべきものを
測ろうとするも
広さ、計り知れず

落ち行く者を受け止める底を
突き止めようと測るも
深さ、極めがたし

天空に炎と燃え上がるものを
見届けんとするも
高さ、及びもつかず

一瞬の停滞にも耐えきれず
未来に望みを託すも
死、逃れようもなし

(p120-121)



生き残る


死者と共に生きる道を教え給え
彼らとの交わりをなだめ
接近を拒まれたいと願う仕草も同様に
なだめる声はどこにあるのか

彼らをわれわれから遠ざけ
虚ろな目にベールをかける嘆きを誰が知ろう
彼の不在に慣れるように手伝うのは何だろう
気が変わって生き残れる様に助けるのは何だろう

胸を突く想いは胸をえぐる短剣のようだ。

(p125)




4/15(金)

・細井和喜蔵『女工哀史』(岩波文庫 1954.7)

アナイス・ニン『小鳥たち』(矢川澄子訳 新潮社 2003.4)(文庫版を既に読んでいる)

・『ラヴクラフト全集 別巻下』(大瀧啓裕訳 創元推理文庫 2007.12)(これでラヴクラフト全集を全て集め終えた)

を買った。




4/15(金)

たえざる恐怖がたんなる潜在状態の域にとどまり、ごく稀にしか苦しみとして感じられないとしても、病であることに変わりはない。それは魂の半麻痺状態である。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p52)

日記 4/2-4/8

4/2(土)

(午前)

梅崎春生「狂い凧」を読み了えた。「幻化」を準備した作品らしい。それも読んでみようと思う


(午後)

皮肉なもので、自由に敵対する者にかぎって、誰より自由を必要とする状況に陥ったりするものなのだ。


僕が耐えられなくなっているもの、それは「笑い」だ。笑いそのものだ。人間の顔だちを変形させる、その突然の劇的なひずみ。それは一瞬にして、その顔が有していたあらゆる品位を台無しにする。人間が笑い、そして人間だけが動物界においてこの恐ろしい顔面変形を顕すのだとすれば、それは同時に、人間だけが動物の本質であるエゴイズムを通り越し、残酷のすさまじい最終段階にまで行き着いたということも示している。


ふたりきりで生きる孤独は、同意ずくの地獄である。


エロチシズムの消失にはもれなく愛情の消失がついてくる。純化された関係なんて存在しない。高度な魂の結びつきなんて存在しない。それらしきもの、それをほのめかすようなものすら存在しない。肉体的な愛が消えたとき、すべてが消える。毎日が陰鬱で平板な苛立ちの連続になる。しかも肉体的な愛に、僕はほとんど幻想を抱いていない。「若さ」「美」「力」肉体的な愛の基準というのは、ナチズムの基準とまったく同じだ。ようするに、僕は途方に暮れていた。


自分のどこに色欲があるのか?どこに傲慢があるのか?自分は救済から程遠いのか?それがそんなに大層な問題だろうかと僕は思う。


(ミシェル・ウエルベックある島の可能性中村佳子 角川書店 2007.2)




4/3(日)

(午前)

雨。睡気がおさまらず横になり微睡む


(午後)

夢を見る人間は、うなされたりすくんだりすることはあっても、ただ見るだけの、あるいは見ることを拒めぬだけの存在であって、その夢の内にもいないのかもしれない。自分自身の姿が見えるのは、初めから夢と知れた夢の中に限ることで・・・・・・。

(古井由吉「明後日になれば」)



講談社学術文庫を全部調べた




4/4(月)

(午後)

病院に行った。相変わらずの雨。風。



小説を書いた



岩波現代文庫を全部調べた




4/4(月)

死とか崩壊とか解体とかとぎりぎり境を接したようなものが快楽なのだ。あと一歩踏みこめば無しかない、空虚しかないといったような地点に至り着かないかぎり本当の快楽はないのだ。あらかじめわかりきった心地良さの反復など実は何の快楽でもない。


(松浦寿輝「無縁」)




4/5(火)

(午前)

歯医者で型を取ってもらった。冷たい、柔らかい何かを噛んだ


(午後)

図書館に来た。ベルンハルトの『消去』を借りようと思ったが借りられていた。残念だ。

日野啓三『天窓のあるガレージ』(講談社文芸文庫 2017.9)

・宮谷宣史『アウグスティヌス』(講談社学術文庫 2004.8)

を借りた。




4/6(水)

僕は道化なんだ。このさきずっと道化だ。そして道化としてくたばる───憎しみと、怒りにまみれて。


変革者というのは、世界の残忍さをそのまま受け入れ、そして一段と激しい残忍さで世界に応酬できる人間のことを言うのだと思う。

(ミシェル・ウエルベックある島の可能性中村佳子 角川書店 2007.2)




4/7(木)

(午前)

久生十蘭「墓地展望亭」を読んだ。かなり面白い




4/7(木)

死体に人権はない、というフレーズが不意に浮かんだ




4/8(金)

皆川博子『薔薇密室』(講談社 2004.9)

野溝七生子『眉輪』(展望社 2000.2)

を借りた。




4/8(金)

子供時代の日記にわたしはこう書いたのだった、「わたしは誰も愛さないほうがいいのだと決心した、なぜって人を愛するとかならずその人たちと別れなければならなくなって、とてもつらい思いをするのだもの。」

(『アナイス・ニンの日記 ヘンリー・ミラーとパリで 1931〜34』原麗衣 ちくま文庫 1991.4)