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灰色の記憶

日記 8/20-8/26

8/20(土)

古井由吉東京物語考』(講談社文芸文庫 2021.5)

・イェジー・コシンスキ『ペインティッド・バード』(西成彦松籟社 2011.8)

・ヘルタ・ミュラー『呼び出し』(小黒康正、高村俊典訳 三修社 2022.6)

を借りた。


立原正秋『春の鐘(上)』(新潮文庫 1983.7)

立原正秋『春の鐘(下)』(新潮文庫 1983.7)

高井有一立原正秋』(新潮文庫 1994.12)

・『大岡昇平戦争小説集 靴の話』(集英社文庫 1996.6)

・モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』(杉捷夫訳 新潮文庫 1952.4)

を買った。




8/21(日)

北杜夫『楡家の人びと(上)』(新潮文庫 1971.5)

・『ポオ小説全集2』(創元推理文庫 1974.6)

谷崎潤一郎『お艶殺し』(中公文庫 1993.6)

を買った。




8/22(月)

病院にいった。


詩を2つ書いた。


須賀敦子が無性に読みたい。




8/23(火)

通所13日目。今日は最後までいた。




8/24(水)

ゲオルゲ詩集』(手塚富雄岩波文庫 1972.6)を買った。


・『木村敏対談集1 臨床哲学対話 いのちの臨床』(青土社 2017.3)

・『木村敏対談集2 臨床哲学対話 あいだの哲学』(青土社 2017.6)

宇野邦一『〈兆候〉の哲学 思想のモチーフ26』(青土社 2015.12)

を借りた。




8/24(水)

故郷を思う人は、必ず異郷にあって故郷を思うのだし、たとえ異郷になくても、故郷とのあいだで一度引き裂かれた末に、異郷として故郷を思うのだ。故郷を思う私の魂には、幾つもの裂け目、継ぎ目、折り目ができている。

(宇野邦一『〈兆候〉の哲学 思想のモチーフ26』青土社 p10)




8/25(木)

目覚めは、暗い体のごく一部に広がる明るみにすぎない。

(宇野邦一『〈兆候〉の哲学 思想のモチーフ26』青土社 p16)



決してとらえられない時間に、すっかり私はとらえられている。「いま何時?」と聞かれても、家の中の時計はどれも止まっている、止まっていなければ狂っている。正しいとき?誰が決めたのか。「あと何年生きるのか」。私の時間なんてものはない。世界の時間を少しずつ盗んでいるだけだ。そして盗んだ時間がまた盗まれる。あと何日、何時間。いつのまにか。いつだって、いつのまにかで。「いつ」は計り知れない。

(p17)



声が見えない。声を発する姿も見えない。声のなかには、いのちのしるしが含まれているはずだ。しかし声はそのしるしを拒むのではないか。いのちが声を発するのに、声がそのいのちを抑えつけるのではないか。声よ!「自分が何を言っているのかわからない」。「これは私の声じゃない」。
書く私は、遠くにいる。もう何も書けない。声を失っているからである。話しているではないか。声を発しているではないか、といわれようと、その声は私の声ではない。声が見つからない。声は死んだ。声は言葉に奪われた。まだ聞いたことのない声がある。

(p18)



存在することは、どうしてこんなに窮屈で、みじめで、限定されているのだろう。

(p19-20)



混沌の中で、混沌にむかって書かなければ……と、おぼろげにつぶやきつつ、言葉以前のところにいた。言葉なしに生きられない自分が、言葉なく横たわっていた。言葉にとってはまるで死んだもののように、渦巻く体になってまどろんでいた。

(p21)



幸福の物語がまやかしだとしても、物語を共有することの幸福は、まやかしではない。

(p23)



いつも自分は注意深く、沸騰する前の状態で生きてきたのではないか。存在しないための否定や拒否の方法が、すっかり身についていたのではないか。

(p49)




8/25(木)

勇気がある人にしか責任は取れない




8/26(金)

通所14日目。


日が短くなった気がする。

日記 8/13-8/19

8/13(土)

眠る、眠ることだ、眠りのほかは無用
目覚めもいらぬ、夢もいらぬ。
風と寄せて身に触れる何やらの
かすかな記憶すら知らぬ。
まして、溢れる生がこの静まりの中へ
響き降りて来ようものなら
いよいよ深く身を包みこみ
いよいよ固く目を閉ざすまでだ。

(フリードリヒ・ヘッベル「苦にもその理」)




8/14(日)

開高健『花終る闇』(新潮文庫 1993.3)

・澁澤龍彥『エロティシズム』(中公文庫 1984.5)

チェーホフ『短篇と手紙』(みすず書房 2002.1)

蓮實重彦『伯爵夫人』(新潮社 2016.6)

を買った。


ボルヘスアレフ』(鼓直岩波文庫 2017.2)

・ミレナ・イェセンスカー『ミレナ 記事と手紙 カフカから遠く離れて』(松下たえ子訳 みすず書房 2009.11)

・メアリー・ルイーズ・ロバーツ『兵士とセックス 第二次世界大戦下のフランスで米兵は何をしたのか?』(佐藤文香、西川美樹訳 明石書店 2015.8)

を借りた。




8/14(日)

おそらく、何物も現実ではないと直感しているからこそ、われわれは簡単に現実を受け入れる。

(ボルヘス「不死の人」)



「狂人たちの行動は」と、ファラクが応じた。「常人には測りかねます」
「彼らは狂っていたわけではありません」と、アブルカシムは説明せざるをえなかった。「ある商人の話によれば、彼らはある物語を演じているのです」

(ボルヘスアヴェロエスの探求」)




8/15(月)

キングダム2を観にいった。




8/16(火)

通所11日目。




8/16(火)

生きてこの世の理を知りつくした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何もわからないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?

(オマル・ハイヤーム「解き得ぬ謎」小川亮作訳)



ないものにも掌の中の風があり、
あるものには崩壊と不足しかない。
ないかと思えば、すべてのものがあり、
あるかと見れば、すべてのものがない。

(オマル・ハイヤーム「無常の車」)




8/17(水)

しかし、風と吹き寄せるもの、静まりから形造られる不断の音信を聞き取れ。

(古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』講談社文芸文庫 p165)


かつては一軒の持続する家屋のあったところに、今では人に考え出された造形ばかりが露呈して、間違いのように、考案の領域にもろに属して、あたかもなお頭脳の内に留まっているかに見える。

(p206)


お前は常に正しかった。そしてお前の聖なる着想は、内密の死であるのだ。

(p224)


しかし苦悩こそわれわれの、冬場も枯れぬ葉であり、心の暗緑であり、内密なる一年の一季節、いや、時ばかりでなく所、寓所であり、臥所であり、地所であり、居所であるのだ。

(p228)


そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう───幸福なものは下降する、と悟った時には。

(p233)




8/18(木)

・『ゴシック文学神髄』(ちくま文庫 2020.10)

飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫JA 2004.9)

を買った。




8/19(金)

通所12日目。




8/19(金)

これは、かつて生じた。いずれまた生じるであろう、とエウフォルブスは言った。お前たちは薪の山に火を付けたのではない。炎の迷宮に火を付けたのだ。かつて私が焼かれた炎のいっさいがここに集められるならば、地上に収まり切らず、天使らも盲目となるだろう。これは私が幾度となく言ってきたことだ。

(ボルヘス神学者たち」)




8/19(金)

久々に酒を飲んで酩酊している。記憶を失くすまで飲んだことはない。


風が気持ち良い。

日記 8/6-8/12

8/6(土)

通い馴れた道であれば見馴れているのに不思議はないものを、一瞬、見馴れたという以上の、既視感に苦しむようだった。

(古井由吉「道から逸れて」)



空間の自然らしさも、人が居たり立ったり動いていればこそ、その目に刻々と保たれているものらしい。

(古井由吉「魂の緒」)



闇はきわまれば白くなると思っている。

(古井由吉「老年」)



破局が身に迫る間際まで、不安は不安として、人は現実からやや浮きあがり、深刻な面持をしながら、むしろ恐怖をことさら招き寄せるような軽躁の中でうかうかと時を過す。危機感というものにはそういうところがあると思った。

(古井由吉「初めの頃」)




8/7(日)

古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫 2020.1)

アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巖谷國士白水Uブックス 1989.5)

を借りた。




8/8(月)

堀口大學詩集』(平田文也編 白凰社 1967.4)を買った。




8/9(火)

数年ぶりに花火を見た。




8/10(水)

夜風を浴びながらぼんやりしている。このまますべてが止まってしまえばいいのにな。永久に。




8/11(木)

通所9日目。




8/11(木)

アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(青柳瑞穂訳 新潮文庫 1956.10)を買った。




8/12(金)

通所10日目。風が強い。

台風が来ているのか。




8/12(金)

書いた詩の数が1000に達した。

多分、死ぬまで書くのをやめないだろう。

日記 7/30-8/5

7/30(土)

現実の孤独においては、錯覚だけが信者に応えるのだが、信者でない者に応えるのは不可解なものなのである。

(ジョルジュ・バタイユ『有罪者 無神学大全』江澤健一郎訳 河出文庫 p31)


宇宙を笑うことで私の生は解放されていた。

(p33)


激しい笑いが生じれば、いかなる限界もなくなる。

(p34)


道徳を意識すると、私は無邪気なまでに「野性的」になるのだ。

(p35)




7/31(日)

軽井沢に来た。




7/31(日)

福永武彦『夢見る少年の昼と夜』(P+D BOOKS 2017.4)を買った。




8/1(月)

ピエール・モリオン『閉ざされた城の中で語る英吉利人』(生田耕作訳 中公文庫 2003.12)を買った。


・アントニオ・ダブッキ『レクイエム』(鈴木昭裕白水社 1996.5)

・『新潮日本文学アルバム 福永武彦』(新潮社 1994.12)

古井由吉『半自叙伝』(河出書房新社 2014.3)

を借りた。




8/2(火)

通所7日目。暑い。暑い。




8/2(火)

ウンベルト・エーコプラハの墓地』(橋本勝雄東京創元社 2016.2)

ミシェル・トゥルニエ『オリエントの星の物語』(榊原晃三白水社 2001.9)

を借りた。


ゲエテ『親和力』(実吉捷郎訳 岩波文庫 1956.7)を買った。




8/3(水)

世界は終わっていて、世界はまがっていて、世界は閉じている。

(タチヤーナ・トルスタヤ『金色の玄関に』沼野充義沼野恭子白水社 p95)



​───たとえ痛ましい思い出だって、ぼくらを拘束する絆になるんだよ。

(ミラン・クンデラ『別れのワルツ』西永良成訳 集英社 p114)



​───自分自身から治癒した者は、破滅する。

(ミロラド・パヴィッチ「ブルーモスク」)



「永遠のために充分な時間など、あったためしがない」

(ミロラド・パヴィッチ『帝都最後の恋』三谷惠子訳 松籟社 p53)




8/4(木)

雨。




8/4(木)

死にうち克ちたいという盲目的な衝動から発した生への欲求は、それ自体が、死の種子をまく手段にほかならない。生を完全に受け入れないもの、生を有意義に使わないものは、すべて、この世界を死によって満たすのを助けているのだ。


寛大というのはな、相手が口をひらく前にイエスということなんだ。イエスというためには、まずシュールレアリストかダダイストになって、ノーということがなにを意味するかを理解することだ。


「発狂するとは、理性をうしなうことであると解されている。たしかに理性はうしなうかもしれないが、しかし決してそれは真理をうしなうわけではない。なぜなら、ほかのものが沈黙をつづけているときに、真理を語る狂人がいるからである……」


おまえのなかに太陽が何万とあればよかったのだがね。永久にここに寝そべって天国の花火を眺めていたい。


私はこれから生の病のなかで生きるつもりだ。


私はおまえの嘘をすべて絶対的に信じる。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




8/5(金)

通所8日目。




8/5(金)

古井由吉『野川』(講談社文芸文庫 2020.6)を買った。

日記 7/23-7/29

7/23(土)

古井由吉『白髪の唄』(新潮文庫 1999.10)

古井由吉楽天記』(新潮文庫 1995.11)

古井由吉『この道』(講談社文庫 2022.2)

塚本邦雄十二神将変』(河出文庫 2022.1)

・宇佐見りん『かか』(河出文庫 2022.4)

を買った。


・ステファン・グラビンスキ『動きの悪魔』(芝田文乃国書刊行会 2015.7)

・『ボードレール詩集』(粟津則雄訳 みすず書房 1966.10)

を借りた。




7/24(日)

青空に紅い雲が旎いていた。




7/24(日)

俺が言いたかったのはただ、思い出は死なないということさ。

(ステファン・グラビンスキ「音無しの空間(鉄道のバラッド)」)




7/25(月)

詩を書いた




7/26(火)

通所5日目。雨。




7/26(火)

記憶は現実そのものとして体験される




7/26(火)

私は傷そのものであった。


​───だが、結局はどうなるというのか?結局は?結局のところどうなるのだ?

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/27(水)

須永朝彦小説選』(ちくま文庫 2021.9)を買った。




7/27(水)

意識とは、完了する死の条件である。

(ジョルジュ・バタイユ『有罪者 無神学大全』江澤健一郎訳 河出文庫 p15)




7/28(木)

・アンリ・バルビュス『地獄』(田辺貞之助岩波文庫 1954.9)

・テオフィル・ゴーチエ『魔眼』(小柳保義訳 現代教養文庫 1991.6)

・ジッド『一粒の麦もし死なずば』(堀口大學新潮文庫 1969.3)

イタロ・カルヴィーノ『くもの巣の小道』(米川良夫訳 福武文庫 1994.12)

・ザッヘル=マゾッホ『残酷な女たち』(池田信雄、飯吉光夫訳 河出文庫 2004.5)

・『立原道造堀辰雄翻訳集 ──林檎みのる頃・窓──』(岩波文庫 2008.8)

を買った。




7/28(木)

彼は、あらゆる人に向って、人生はくだらないものであり、苦労する価値のないものであること、どっちへころんでも、たいしたことにはならないということを、証明しようと努力しているように見えた。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)


喜び、愛、なごやかな自由は、私のなかでは充足への憎しみと結びついている。

(ジョルジュ・バタイユ『有罪者 無神学大全』江澤健一郎訳 河出文庫 p30)




7/29(金)

通所6日目。




7/29(金)

トーマス・マン魔の山(改版)』(関泰祐、望月市恵訳 岩波文庫 1988.10)

梅崎春生『狂い凧』(講談社文芸文庫 2013.10)

を買った。

日記 7/16-7/22

7/16(土)

自分が年を取っていくということが亡くなった人へ供養になるというような感じ方は、あるものかしら、などと考えたりした。

(古井由吉「枯木の林」)



人生は間違いの連続で、それによって我々は究極の真実、唯一の真実へと導かれるのだ。

(ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲野谷文昭白水社 p9)


あいつの罪が積み重なって天に届き、神はその無数の邪悪を思い出したのだ。

(p23)


自分が空虚の中に、はらわたの空虚の中に、胃袋や内臓でできた空虚の中に落ち込んでいく気がした。

(p25)


時の経過、時間の経過、歳月の立てる音、幻影の絶壁、生き残ることの労苦を除くあらゆる種類の労苦からなる死の渓谷。

(p31)


いかなる会話も対話も禁じられている、とある声が言う。

(p31)


もはや自分でも何を言っているのかわからない、話したい、言いたいと思っても、出てくるのは泡ばかりだ。

(p59)




7/17(日)

ことの良し悪しが常にわかる人間などいるだろうか?

(ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲野谷文昭白水社 p108)




7/18(月)

通所2日目。暑い。




7/18(月)

離れたところから眺めて、枯枝を神経のように張りひろげて天を刺す樹々を、美しいとは結局こういう、細って寒いことなのだろうかなどと思うのはまだしも何かの感慨のうちらしい。

(古井由吉「枯木の林」)



屈辱が一点滴ると、恐怖は溢れ出す。


人は記憶なしには生きられない。


しかし生きながらえた人間の、生きながらえるための業とも言える記憶にも、目ばかりになった静まりへ、かすかに通じるものが、ありはしないか。

(古井由吉「子供の行方」)




7/19(火)

通所3日目。雨。蝉の声。鴉の声。




7/19(火)

私は靴の底から頭の毛さきにいたるまで精神分裂症であった。


どの出口にも大きな字で、「壊滅」と書いてあった。


私は虚空を映す多面鏡の箱になっていた。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/20(水)

私は、まだ存在しない現実に属する怪物なのだ。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/20(水)

人と会った。話すのはやっぱり楽しい。いろいろ教えてもらった。




7/20(水)

ジャン・ジュネ『葬儀』(生田耕作河出文庫 2003.2)

ユイスマンス『彼方』(田辺貞之助創元推理文庫 2002.11)

・ネルヴァル『火の娘たち』(中村真一郎入沢康夫ちくま文庫 2003.9)

を買った。




7/21(木)

病院。




7/22(金)

通所4日目。




7/22(金)

トーマス・ベルンハルト『消去』(池田信雄訳 みすず書房 2004.2)を借りた。

日記 7/9-7/15

7/9(土)

なんら不足のない子供のころですら、私は死にたいと思った───苦労することに、なんらの意義も認められなかったので、すべてを放棄したかった。自分で求めもしなかった人間生活をつづけても、なにひとつ得るところがなく、なんらの実証も得られず、プラスにもマイナスにもならないような気がした。


そのころはまだ目を開いたまま夢を見る方法など知らなかった。


奇妙な言いかたかもしれないが、私は一度も私自身になったことがなかった。


恋か悲しみか、その他なんらかの原因によって孤立したものにとっては、いかなる言葉も、あらゆる言葉を包含していた。


私は事物そのものにしか心をひかれなかった。個別的な、分離された、とるに足らぬ事物にだけ、関心を抱いた。


私は事物そのものに対する執拗な愛情に満たされていた───それは、哲学的な愛着ではなくて、熱情的な、絶望的にまで熱情的な飢渇であった。あたかも、あらゆる人に無視され、捨ててかえりみられない無価値なもののなかに、私自身の甦生の秘密がひそんでいるかのようであった。


新しいものの氾濫している世界のまっただなかに住みながら、私は古いものに愛着を感じた。あらゆる物体のなかに、とくに私の関心をひく微細な部分があった。私は顕微鏡的な目で、私にとっては物体の唯一の美を構成している醜い部分を、欠点を、探し求めた。ある物体をばらばらにしてしまったもの、それを使用不可能にしてしまったもの、古くしてしまったものは、すべて、いかなるものでも私の興味をそそり、私を魅惑した。ひねくれているといわれるかもしれないが、私は周囲に発生しつつある世界とは無縁な人間なのだから、その点からすれば、むしろ健康であったと思う。まもなく私も、自分の敬愛するそれらの物体のようになりたいと思うようになった───孤立した存在に、社会の無益無能な一員になりたかった。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/9(土)

18時34分。鴉が鳴いている。




7/10(日)

私の身辺でこれまでに起ったあらゆる出来事が、まるで嘘のような───いや、嘘よりももっと悪い、無益な出来事のように思えた。


孤独などというものは、完全に撤廃されるだろう───なぜなら、あなた自身の価値をふくめて、すべての価値が、破壊されてしまっているのだから。


ほとんど愛情がないだけに、かえって、あらゆる人に対して、あらゆるものに対して、自己を犠牲にすることができる。


もし私が破滅を求めていたとしても、それはただ、その目が光をうしなってもらいたかったからにすぎない。


もはや、話すことも、聞くことも、考えることも、いっさいしたくなかった。なにかに没頭させられ、包含され、そしてまた包含し、没却したかった。同情も、憐れみも、もうほしくはなかった。草木や虫や小川のように、ただ地上のものとしての人間でありたかった。分解して、光と石をとり除かれ、分子のように変りやすく、原子のように耐久力があり、地球そのもののように無情になりたかった。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/10(日)

立原正秋『剣ヶ崎・白い罌粟』(新潮文庫 1971.3)を買った。




7/11(月)

作業所の体験にいった。みんな優しかった。




7/11(月)

食うという行為のなかで、聖体は冒瀆され、一時的に正義は敗北する。


私は、いわゆる世界の一部であり、生命の一部であり、それに属していながら、しかも、それから逸脱していた。


私は夢が実体化した矢であった。それは、飛翔することによって夢を実証し、やがて地上に落ちて無に帰した。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/12(火)

通所1日目。




7/12(火)

この瞬間まで私のものであったすべては妄想なのであろうか。


死という唯一の確実性を把握した彼にとって、もはやいっさいの不確実さは消滅してしまった。


混乱とは、解明されていないひとつの秩序を名づけるためにつくられた言葉である。


(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)




7/13(水)

自分でもよくわからない憂愁に駆られたとき、身を切られるように痛切な経験、どうしようもない絶望感に沈みこんだとき……そのような一見暗い光景にもふしぎに透明な光がどこからか、場面全体に静かに射し込み、その事態がそうでしかなかったことを、私自身の意志を超えてありありと浮かび上がらせた。

(日野啓三「冥府と永遠の花」)




7/14(木)

日野啓三『光』(P+D BOOKS 2022.7)を買った。

・ブライアン・エヴンソン『遁走状態』(柴田元幸訳 新潮社 2014.2)

・ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』(野谷文昭白水社 2017.9)

ミシェル・ウエルベックセロトニン』(関口涼子河出書房新社 2019.9)

を借りた。




7/15(金)

病める星のように横たわって、光が消え去るのを待っているのである。


人々は空虚とは無のことだと思っているが、そうではない。空虚とは不調和な充満のことであり、人間の魂がわけ入る無気味な混みあった世界のことだ。

(ヘンリー・ミラー『南回帰線』)