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灰色の記憶

今日死ぬかもしれないと思いながら今を這う

誰しも思ったことがあると思う。「自分は何歳まで生きるのだろうか?」と。勿論、わたしも思っていた。過去形だ。思って、いた。

死ぬのが怖いと思っていた時期があった。それは漠然とした不安に似ていたかもしれない。なぜ怖いのか、なぜ死にたくないのか。ずっと考えていた。ずっと、ずっと。そう、ずっと。

答えは出なかった。そもそも死んだことがないのに死に対して恐怖心を抱く自分に辟易した。死ぬときは痛い?痛みに拘束されて意識を失う?知ったことか。

「死」について考えるとき、感情論を持ち込むべきではない。いや、絶対に持ち込んでは行けない。人の生や死を当人以外の個人の尺度で価値測定してはいけないのだ。なぜなら、死人と話すことは出来ないから。沈黙しなければならない。「きっとこう思っていたのだろう」なんていうのは、想像で、自身に対する欺瞞だ。死者に対する冒涜だ。自己満足の感傷だ。

わたしは今まで、未来将来に怯えながら生きていた。先行き不透明な未来について考えることなど、初めからしたくなかった。

わたしには長生きしたいという願望がない。それもそのはず、第一やりたいこともなければなりたいものも明確にない。何者かになったところで、人生は続いていく。人間関係は続いていく。死ぬまで。そんなのはごめんだ。

先月、新宿の紀伊国屋を歩いていたときにこんな言葉を目にした。『Living for today』、その日暮らしという意味だろう。

また、同月に地元で『天気の子』という映画を観た。今夜の寝床を捜すといった雰囲気で、まさにその日暮らし『Living for today』だった。

それまで未来に対して怖がっていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。今は疎遠になってしまった職場の先輩とプライベートで逢ったとき、彼はこう言っていた。『今日を全力で生きろ』と。去年の6月の話だ。

言葉が心臓で反芻している。融けている。彼の言葉が、彼が、わたしのなかに存在している。

これからを悩むことなんて、わたしには柄じゃない。

あの日わたしは、未来を考えることをやめた。