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灰色の記憶

テレビとわたし

わたしはこの家族のなにを知っているんだろう。わたしはこの家という箱のなかで、一体どういう役割を担い果たしてきたんだろう。

いまとなってはもう、遠い昔のことのようにおもえる。わたしは自分でも認めるほどのテレビっ子だった。毎日なにかしら楽しみにしている番組があり、その番組の放送曜日でその日の曜日を把握していた。つまり、曜日感覚が途切れることなく頭のなかに浸透していた。

ふと小学生の頃をおもいだす。小学校。6時間目、そして帰りの会を終えたあとで掃除当番があれば放課後の教室掃除を行い、どんなに遅くても家に着くのは16時前だった。自宅から小学校まではかなり近く、走れば1分もかからずに着く距離で、朝登校して忘れ物をしてしまったときに急いで取りに戻りに行けるため、通学距離が短いことの恩恵を切に感じていた。

帰宅して最初にすることといえば、テレビの電源をつけることだった。平日の16時頃になるといつも始まるドラマの再放送。当時小学生だったわたしはいつもこの日課を楽しみにしていた。低学年のときは放課後になると外で遊んでいた記憶があるので(外で遊んでいたといっても公園や誰かの家でめいめい持ち寄ったゲーム機で遊んでいただけだが)、おそらく中学年か高学年になってからの日課だろう。それも毎日の楽しみのひとつだったのだけれど、それは1話完結ではなく連続ドラマなので、曜日感覚を把握する材料にはならない。あくまで日課の一部に過ぎなかった。

日課が本格的に開始するのは19時、いわゆるゴールデンタイムというやつになってからだ。観ていたのはだいたいバラエティ番組だっただろう。19時から21時のあいだの2時間、自分の好きな番組を追いかけるのが楽しくて面白かった。21時になるとどのチャンネルもだいたい大人向けのドラマや情報番組に切り替わるため、それで日課が終わったことを知らされる。楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。そう毎日思いながらわたしはいつも21時半には布団に入り眠りについていた。寝付くまで、明日の日課に思いを馳せながら。

5年生になってから、最寄り駅の塾に通わされるようになった。それまで習い続けていた空手と水泳を両方ともやめ、塾に通うことになった。学校での成績は悪くなかったし、むしろ全体的に平均以上だった。特に漢字と算数が得意で、それだけはいつも満点だった。「別にいまのままでなにも不自由ないのに、なんで塾に通うんだろう」、そうおもったけれど習いごとが1つになるならいいかとおもい言われるがままにそうしてしまった。

塾の授業自体はそんなに苦ではなかった。ただ、宿題が毎回出て、それが面倒だった。大体土日の昼間とかに学校の宿題と一緒に片付けていた気がする。なにが落ち着かないって、宿題とかやらなくちゃいけないことが残ったままで日課をすることが気持ち悪くて嫌だった。だから極力早く手につけるよう心がけていた。例えるなら弁当箱で苦手なものを先に食べて好きなものを最後にとっておく、そんな感じの性格だった。

6年に進級しても塾には通わされた。月謝を払ってもらっている身だったから従順に首を縦に振るしかなかったのだろう。そう自身に言い聞かせるのも束の間、6年になって自分がいたのはなぜか受験クラスだった。受験クラス?受験するのか?不安に襲われ、日課もろくに楽しめなくなり、わたしはその日からおかしくなり始めた。

5年のときは受験クラスではなかった。5年にも受験クラスが存在することは6年になってから知った。6年最初の受験クラスの授業。5年のときの授業の雰囲気とは明らかに違うのを肌で感じていた。やめたい。その一言が言えなかった。いや、言わなかった。親の歪む顔を見るのが嫌だった。

そもそもわたしは家でも学校でも寡黙な方で、学校での休み時間は絵を描いたり本を読んだりしてほとんど誰とも話さないで過ごしていたし、家でも家族と仲は良くない方だと保育園の年長あたりから薄々思い始めていたので腹を割って話せる相手というのがいなかった。小3のときに吃音症を理由にスピーチを延々と先延ばしにしていたことも、小5のときにクラスメイトに囲まれて蹴られたりゴミ箱に頭を突っ込まれて雑巾を口にねじ込まれたことも言っていない。親の歪む顔が見たくないから。わたしは誰にも打ち明けていない秘密を山のように持っている。本当のわたしでいられる場所なんてどこにもなかった。

6年の受験クラスになってから塾に行くことが毎回嫌だった。毎回怖かった。そして宿題が5年のときとは比べ物にならないくらい大量に出た。1か月前とは違う、とても1日では終わらない量の課題が毎回出された。日課を楽しむ余裕が完全になくなった。というより、その日課自体ができなくなっていった。物理的にも、精神的にも。曜日を知る手段が塾のある日に変わっていた。日課から疎遠になったからだ。つまり日々の楽しみが完全になくなってしまった。

楽しみを失い心に空洞ができた状態で、恐怖に怯みながら塾に行く。生きている意味がわからなくなっていった。長期休みに入ると講習が毎日始まる。朝の9時から夕方の5時まで凡そ8時間、受験のための授業を受け、授業が終わると毎回毎回毎回毎回異常な量の課題を出され、それを光のない目で就寝時間までに終わらせる。ときには日付をまたいだときもあった。それでも講習には毎日遅刻に早退に欠席もなく、最初から最後まで毎回出席していた。精神が日に日にすり減っていって、誇張抜きに自分はもう死んでしまうのではないかとおもった。こんな小学生、いやだよ。

受験は3校受けた。そして全て落第した。もともとあがり症なのもあったのだろう。本番につくづく弱い人間だった。最後の合格掲示板を見に行った日の両親の顔が思い出せない。いや、思い出したくない。思い出したら、多分吐いてしまう。結局、小学校のすぐ傍にある、市立の中学校に通うことに落ち着いた。

中学では部活に入った。入ったけれど、人間関係トラブルがあって入部して1年と少しでやめてしまった。運動部だった。退部したあとの放課後は家に引きこもってYouTubeを観たり勉強したりしながら過ごしていた。3年生になり、受験生と言われる。まわりの人間のほとんどはおそらく初めて言われただろう。でもわたしはその言葉を聞くのは二度目だった。フラッシュバックで吐き気が込み上げてきそうだった。小5から通っていた塾は中学に上がっても通っていて、結局高校受験が終わるまでお世話になった。公立と私立を受け、第一志望だった公立には落ち私立に進学が決まった。5年間見てくれた塾の先生にはただただ申し訳ないという気持ちだけが残った。受験が終わったあとに塾に顔を出す生徒もいると聞いたけれど、わたしは高校に進学してからも一度として顔を出すことはなかった。合わせる顔がなかった。

高校は私立だったため、塾みたいな環境だった。土曜日にも予備校の講師を招いて授業があった。まわりの生徒はほとんど寝ていた。わたしも寝ていた。中学でも楽しみという楽しみはなかったため、知っている顔のほとんどない新しいこの環境ではなにか新しい趣味を見つけたい、とおもった。

高校は自転車通学だったため、帰りによく寄り道していた。主に本屋に立ち寄って限られた小遣いのなかで参考書を買うことが趣味だった。本屋に通うようになってから、休日も本屋に行くようになり、家での口数はさらに減った。ちなみに中学の頃もほとんど口を聞かない状態だった。高校に入って始めたことといえば、Twitterだろうか。Twitterで同じ学校の生徒と繋がり校舎内で挨拶を交わすことが増えた。1学年に16〜17クラスもあるような学校だったため、部活には入らなかったものの、いろいろな生徒と交流することができた。Twitterばかりするようになり、中学に続いて家でテレビを観ることはほとんどなくなっていった。リビングには食事のとき以外行かず、自室に引きこもるようになった。

2年に進級して、担任が変わった。聞くところによると東大で理系で大学院を出ているとのことだった。教職を選んだのはどうしてなんだろう。不思議だった。その担任になってから、高校生活が一気につまらなくなった。つまらなくなったというより、苦になった。毎日嫌味たらしいことをホームルームの時間になると延々垂れ流され、心身共に疲労困憊していった。現代風に言うならば、精神を病んでしまった。それでもわたしは通い続けた。というのも、2年になってから好きな授業があって、いや、好きな先生ができ、その先生に会うためだけに学校に行っていたようなものだった。それ以外はどうでもよかった。無事単位を落とすことなく3年に上がり、3年になってもその好きな先生の受け持つ授業がカリキュラムにあったため、わたしはかろうじて通学を継続することができた。3年、つまりわたしにとって三度目の受験生。普通なら受験勉強に取り掛かっていなければ今すぐ取り掛かるはずだが、わたしは受験で使わないその先生の科目ばかりやっていた。それ以外はどうでもよかった。というより、進学に興味がなかった。成績は上位10%をキープしていたけれど、大学進学に積極的になれなかった。私立をいくつかと国立を最後に受け、私立に進学が決まった。その先生とは今も稀に連絡を取り合って個人的に会ったりしている。

大学ではTwitterを通じて友人が数人できた。全員異性だった。大学の授業は嫌いではなかった。ただ、精神面と金銭面で毎日パニックを起こし続け半年でやめてしまった。ただその友人たちは本当にいい人たちで、わたしが退学したあとも何度も会ったりしている。引きこもりにまで堕ちてしまっても、軽蔑しなかったのは彼女たちくらいだ。死ぬまで忘れることはないだろう。

幼少期の楽しみは夢中になってテレビを観ることだった。ただ、もうテレビはまったく観ていない。家族とも口を聞いていない。精神科に通いながら、わたしは毎日自室に引きこもって自分にできることをしているだけ。楽しみといえば偶にTwitterで知り合った人と月に1回とかのペースで会うだけ。このあいだ読んだ宮木あや子さんの『官能と少女』という小説に「家ではいつもテレビがついていて、お父さんもお母さんもずっとテレビばかり観ていて、わたしの相手をしてくれなかった」みたいな描写があった。わたしは自分から家族に話しかけるということはなかったな、とおもい立ち、わたしはその逆をしていて、そしてまたその逆の状態、すなわちその小説の描写に近い生活になってしまったんだな、とおもった。テレビなんか、最初からなけりゃあよかったな。

わたしはこの家族のなにを知っているんだろう。わたしはこの家という箱のなかで、一体どういう役割を担い果たしてきたんだろう。そしてこれからもそれがわからないまま、わたしもわたしのことがよくわからないまま、本当の意味でこの家族のひとりになることはないのだろう。