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灰色の記憶

日記 12/17-12/23

12/17(金) その1

回復した。



12/17(金) その2

沈黙は今日では『利用価値なき』唯一の現象である。沈黙は、現代の効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在しているだけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、人々はそれを搾取することが出来ないのである。

(マックス・ピカート『沈黙の世界』佐野利勝 みすず書房 2014.2)


もろもろの始原の現象のまえに立つとき、われわれはふたたび太初の発端に立たされているようである。その時われわれは、われわれが日常それと共に生活している「単なる派生的現象」(ゲーテ)を棄ててしまっているのだ。それは一種の死のようなものである。われわれは、名も知らぬ一つの新しい発端に直面して、一人ぼっちのまま放置されている。だからこそ不安を感ずるのである、・・・・・・「もろもろの始原現象が被覆を脱ぎすててわれわれの感覚のまえに立ち現われるとき、それらの始原現象に対してわれわれは一種の畏怖を感ずる、そしてこの畏怖は不安の感情にまでたかまる。」(ゲーテ) つまり、沈黙のなかで、われわれはふたたび太初の発端のまえに立つのだ。そこでは、万事があらためてもう一度開始されることが出来る。万事がもう一度あたらしく創造されることが出来るのである。人間は、沈黙によって毎瞬間ごとに元初的なるもののもとに居合わせることが出来るのである。そして、人間は沈黙と結びつくとき、ただ単に沈黙という元初的なるものに参加するのみではなく、あらゆる元初的なるものに参加するのだ。沈黙は、人間のために常に用意されている一つの始原の現象なのであって、沈黙のように何時いかなる瞬間にもそのように現在している始原現象は、他にない。

(マックス・ピカート『沈黙の世界』佐野利勝 みすず書房 2014.2)


なるほど、言葉は人間に属してはいる。しかし言葉はまたそれ自身に属している。言葉のなかには、人間が自分自身のためにそこから取り出してくることが出来るよりも、より多くの悲しみと、喜びと、嘆きとがある。あたかも、言葉は人間に依存することなく、それ自身のために、悲しみや、嘆きや、喜びや歓呼を所有しているようなのだ。

(マックス・ピカート『沈黙の世界』佐野利勝 みすず書房 2014.2)



12/17(金) その3

見守ってくれる人がいるというのは、ありがたいね。それ以外はいいよ、見守ってくれるだけで私には充分だから。



12/18(土)

何かもっと先のことを信じたいと思う、
きみを壊した死の向こう側のことを。
あの力のことをまた口にできればと願う、
すでに溺れたものになっていたぼくたちが
それによって、また一緒になり、
太陽の光の下で自由に歩けるように
乞い願ったあの力を。

(プリーモ・レーヴィ『一九四四年二月二五日』)



12/19(日)

リルケの言うように愛は困難なのかもしれない。愛するのは簡単だ。愛し続けることだ、困難なのは。



12/20(月)

マルキ・ド・サド悪徳の栄え(上)』(訳:澁澤龍彥 河出文庫 1990.10)

ジョルジュ・サンド『愛の妖精』(訳:篠沢秀夫 旺文社文庫 1996.12)

・フセーヴォロド・ガルシン『赤い花・信号 他四編』(訳:小沼文彦 旺文社文庫 1968.3)

を買った。



12/21(火)

ミルトンの失楽園が読みたい。


マルグリット・デュラスモデラート・カンタービレ』も気になっている…



12/22(水)

矛盾のおかげで自己がすべてではないことに気づく。矛盾は自己の悲惨であり、自己の悲惨の感覚は実在の感覚である。自己の悲惨を捏造するわけがないからだ。この悲惨は本物である。ゆえに愛さねばならない。それ以外はことごとく想像上のものにすぎない。

(シモーヌ・ヴェイユヴェイユの言葉』冨原眞弓 みすず書房 2019.10)



12/23(木) その1

倉橋由美子『交歓』(新潮文庫 1993.5)

横光利一『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫 2003.3)

古井由吉『杳子・妻隠』(新潮文庫 1979.12)

高橋和巳『堕落』(新潮文庫 1969.7)

岩井志麻子『魔羅節』(新潮文庫 2004.8)

川端康成伊豆の踊子・花のワルツ 他二編』(旺文社文庫 1965.7)

武者小路実篤『友情・愛と死 他一編』(旺文社文庫 1965.7)

・末広恭雄『魚の歳時記』(旺文社文庫 1982.10)

・那珂太郎(編)『萩原朔太郎詩集』(旺文社文庫 1970.3)

ディケンズ『クリスマス・カロル』(訳:神山妙子 旺文社文庫 1969.12)

を買った。



12/23(木) その2

自分の外に、苦しみをまき拡げようとする傾向。もし、過度な気の弱さのために、他人の同情をひくことも、他人に害を加えることもできないときには、自分の内部にある宇宙の表象に害を加えようとする。
そのときには、美しいもの、よいもののすべてが、自分を侮辱するもののように思えてくる。

(シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』田辺保 ちくま学芸文庫 1995.12)



12/23(木) その3

「私は優しくない」と公言・宣言することによって損なわれる何か。この何かによって救われたかもしれない誰か、及び好転したかもしれない何か。


「私は優しくない」と他人に認めさせる、認めさせたいと思うことの低劣さ。この低劣さを自覚しているか否か。自覚していて尚、認めさせたいと思うのか。

「私は優しくない」からといって、他人を攻撃してはならない。他人を攻撃していい理由などあってはならない。


自分の行動、言動を他人に悪意だの善意だのと推量、審議されることに対する嫌悪感。そんな時にはこう言えばいい、「どちらでもない」、と。


あるいは、「どちらもだ」、と。