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灰色の記憶

日記 3/5-3/11

3/5(土)


詩を書いた




3/6(日)


教養の低い階層出身者には近代芸術は無縁であるというのが一般の定説であるが、これはどうやら誤りである。まったくその正反対である。たとえなにが描かれているか見当がつかなくとも、そこにあるさまざまの形体の戯れや色彩の調和そのものに喜びを覚えるのは、かえってこれらのひとたちに多い。



最良の人間とはつねに人生を最も単純な姿でのみみているひとびとであり、なみなみならぬ人生の難関にさしかかっても少しもそれと知らずに通り過ぎてしまうひとたちである。このひとたちの心情にはいかなる悪もつけ入る余地がない。



そもそも本物の絵とは何だろう?本物の絵とは即ち、ひとりあるいは数人の専門家によって本物なりと折り紙をつけられた絵にほかならぬ。



「いちばん仕合せというのは生れない連中のことさ」



「良心を、目的そのものと考えてはいけないと思いますね」



名前などはひとに知られないほど良いのです。

(ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』小島衛 白水Uブックス 2021.9)




3/7(月)


皆川博子『結ぶ』(創元推理文庫 2013.11)

山藍紫姫子『花夜叉』(角川文庫 2004.1)

・武者小路實篤『幸福者』(岩波文庫 2006.12)

・レッシング『賢者ナータン』(訳:大庭米治郞 岩波文庫 2006.12)

チェーホフ櫻の園』(訳:米川正夫 岩波文庫 2006.12)

チェーホフ『伯父ワーニャ』(訳:米川正夫 岩波文庫 2006.12)

を買った。




3/7(月)


不幸とは、すぐれて詩的状態である。

(シオラン『思想の黄昏』金井裕 紀伊國屋書店 1993.8)



キリスト教信者たちが考えるように、神が人間を創造したのだとしたら・・・・・・もしかしたら神は女がマゾヒストにならざるを得ないように、そして、男がサディストにならざるを得ないように、わたしたちの肉体を設計したのではないか​──。
わたしは本気でそう思っている。
どの民族でも、男はたいてい女より体が大きい。そして、どの民族でも、男はたいてい女より力が強い。
その理由のひとつは、男という性が狩猟などの危険な仕事に従事し、家族や部族を守るために敵と戦うためだろう。
けれど、それ以上に、男が女より大きくて強い理由──それは、性交を拒もうとする女を力ずくで犯すためなのではないだろうか?
性交という行為を、人はしばしば『愛し合う』と表現する。
愛し合う?
いや、わたしにはそうは思えない。それどころか、その行為はほとんど暴力的なものだとさえ感じている。
男たちは、わたしたち女に力ずくでのしかかり、力ずくで女を押さえ付け、力ずくで女の肉体を押し開き、力ずくで突き刺し、力ずくで貫く。女たちの髪を抜けるほど強く鷲摑みにし、乳房に跡が残るほど激しく揉みしだき、荒々しく乱暴に唇を貪り、硬直した男性器で嫌というほど執拗に子宮を突き上げる。
それらの行為のどこに、愛があるというのだろう?女という性に対する慈しみが、どこにあるというのだろう?
程度の違いこそあれ、男たちの多くは性交時に、女を支配し、征服するという、サディスティックな快楽を覚えているはずだ。
それに対し、力ずくで支配され、征服された女にできることは、あまりにも少ない。
わたしたち女にできること、それは・・・・・・喘ぎ、悶え、呻き、悲鳴を上げること・・・・・・それから、もうひとつ・・・・・・その苦痛と恥辱と屈辱の中に、マゾヒスティックな快楽を見いだそうとすること・・・・・・それだけだ。
女に悲鳴を上げさせ、女を征服し、支配するという男の快楽​──。
男に悲鳴を上げさせられ、男に征服され、支配されるという女の快楽​──。
男のせいでも女のせいでもない。それはすべて、男女の肉体的な構造に由来するものなのだ。
そんなふうに考えるわたしは・・・・・・やはり、どこかおかしいのだろうか?

(大石圭『甘い鞭』角川ホラー文庫 2009.5)




3/7(月)


小説を書いた




3/8(火)


冬のような寒さだった


・ペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』(訳:元吉瑞枝 同学社 2002.11)

エリアス・カネッティ『眩暈』(訳:池内紀 法政大学出版局 2004.12)

・トーマス・ベルンハルト『ふちなし帽 ベルンハルト短篇集』(訳:西川賢一 柏書房 2005.8)

ハイナー・ミュラー『指令』(訳:谷川道子 論創社 2006.7)

・フォルカー・ブラウン『自由の国のイフィゲーニエ』(訳:中島裕昭 論創社 2006.6)

マイケル・オンダーチェ『アニルの亡霊』(訳:小川高義 新潮社 2001.10)

皆川博子『ジャムの真昼』(集英社 2000.10)

を借りた。




3/9(水)


もう何も望むものなどなくて何とか幸せだということは稀で、大抵は、何も望むものなどなくて少し不幸せなのである。



「わたしはいつも強くなければならなかったけど、弱いままでいたいというのが、わたしの一番望んでいたことなのよ。」



ただ単に存在していること、それが、拷問に等しい苦痛になった。



イメージが形成されるや、イメージは、もうイメージすべきことなど何もないことに突然気づき、ただちに崩壊する。

(ペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』元吉瑞枝 同学社 2002.11)




3/10(木)


おれには、何も/何も見えない。何という鉛の空だ
おれたち自身が空模様を決めるようになってから、ずっとこうだ/ずっとこうだ。
この空は鉄の壁のように、言葉を
はね返す。

(フォルカー・ブラウン『自由の国のイフィゲーニエ』中島裕昭 論創社 2006.6)



バルバドスでひとりの農場所有者が奴隷制の廃止後二ヶ月目に殴り殺された。彼が解放してやった奴隷たちが彼の所にやってきたの。そして教会でするように跪いた。彼らが何を望んだかわかる?奴隷制の庇護の下に戻ることだったのよ。それが人間というもの。人間の最初の故郷は、母親という監獄なの。

(ハイナー・ミュラー『指令』谷川道子 論創社 2006.7)




3/10(木)


小説を書いた




3/11(金)


学問と真実とは、キーンにとって同一の概念であった。人間から遠ざかるほどに真実に接近する。日常とは虚偽を浮動させるさざ波だ。

(エリアス・カネッティ『眩暈』池内紀 法政大学出版局 2004.12)



神よねがはくは我をすくひたまへ、大水ながれきたりて我がたましひにまでおよべり われ立止なきふかき泥の中にしづめり、われ深水におちいる、おほみづわが上をあふれすぐ われ歎息によりてつかれたり、わが喉はかわき、わが目はわが神をまちわびておとろへぬ

(『文語訳旧約聖書Ⅲ 諸書』岩波文庫 2015.10)