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灰色の記憶

日記 3/12-3/18

3/12(土)

元気がない


自分を何かに譬えることがそれに対する冒涜のように思える





3/12(土)

「おれにとっては救いか、しからずんば死が必要なのだ・・・・・・」
「おそらく、お前はそのどちらにもぶつかるだろう」

(マルキ・ド・サドロドリゴあるいは呪縛の塔」)





3/13(日)

坂東眞砂子『恍惚』(角川文庫 2011.11)を買った。





3/14(月)

永井荷風『地獄の花』(岩波文庫 1993.9)

・セーレン・キェルケゴールキェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ』(訳:鈴木祐丞 講談社 2016.4)

・カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』(訳:本田誠水声社 2016.5)

を借りた。





3/15(火)

理性は本当に本能の抑止力だろうか?理性を以て悪事を為すことは絶対にないと言い切れるだろうか?





3/15(火)

定りなき毀譽の巷に立つて傷き易い名の爲めに苦しい戰に疲らされるよりは、却つて社會の外に押退けられた穩かな世界に在る人は、冷靜に考れば寧ろ至上の幸福に浴して居ると云はれるかも知れぬ・・・・・・

(永井荷風『地獄の花』岩波文庫 1993.9)





3/15(火)

何者にもなりたくないと言いながら人一倍虚栄心が強いあなたが愛おしい





3/15(火)

​──詩人は気取るもんさ。我に詩を与えよ。然らずんば死を、かね。

(小沼丹「紅い花」)





3/16(水)

石川淳『鷹』(講談社文芸文庫 2012.4)

・岡田睦『明日なき身』(講談社文芸文庫 2017.3)

上林暁『聖ヨハネ病院にて・大懺悔』(講談社文芸文庫 2010.11)

佐伯一麦『ノルゲ』(講談社文芸文庫 2015.10)

島尾敏雄『夢屑』(講談社文芸文庫 2010.9)

中上健次水の女』(講談社文芸文庫 2010.7)

古井由吉『聖耳』(講談社文芸文庫 2013.6)

福永武彦『死の島(上)』(講談社文芸文庫 2013.2)

福永武彦『死の島(下)』(講談社文芸文庫 2013.3)

福永武彦『幼年・その他』(講談社文芸文庫 2014.1)

吉田知子『お供え』(講談社文芸文庫 2015.4)

を借りた。





3/17(木)

喪(悲しみ)を消し去ろうとするのではなく(時間によって消滅するというのは愚かな考えだから)、変えること、変換すること。停滞した状態(鬱滞、閉塞、おなじものの反復)から、流れる状態に移行させること。



涙がでてくる。
自殺したいという思いさえなくなる。



内面化した喪では、徴候はほとんどみえない。
それが、絶対的な内面性の実現である。とこが、あらゆる賢明な社会は、喪を外面化することを規定し、体系化したのだった。
わたしたちの社会の居心地の悪さは、喪を否認していることにある。




起こってしまったことへの恐怖というのは、なんと真実であることか。だがさらに不思議なのは、ふたたび起こりえないことなのに、という点である。そして、それこそが決定的なことの定義なのである。



悲しみを、病気や「憑依」──疎外(自分を未知の人にしてしまうもの)──であるかのように──鬱状態だからという口実で──麻薬でまぎらわせることはできない──ふさわしくない──。それは、まさしく本質的で内面的な善なのだから・・・・・・。



「無垢」とは、けっして何かを傷つけたりしない。



彼女は、愛するひとをぜったいに苦しめることはなかった。それが、彼女の本質の定義であり、彼女の「無垢さ」であった。



わたしは悲しみに生きており、それがわたしを幸せな気分にする。

悲しみに生きることを妨げるものすべてに耐えられない。



悲しみに生きること以外はなにも望んでいない。



わたしの悲しみは説明できないが、それでも語ることはできる。「たえがたい」という言葉を言語がわたしに提供してくれるという事実そのものが、ただちにいくぶんかの耐性をもたらすのである。



どうして、すこしでも後世に残ることや、わずかでも航跡をつけることを望んだりするだろう?わたしがもっとも愛し、今もなお愛しているひとたちは、そういうものを残さないというのに、わたしや、何人かの過去の生き残りたちがなぜそう望むだろう?わたし自身の生をこえて、歴史を偽る冷たい見知らぬ人のなかに残ったとして、何になるというのだ。

(ロラン・バルト『喪の日記』石川美子 みすず書房 2009.12)





3/17(木)

(個人的な)習慣、パターン、秩序。私を苛むと同時に、安寧を齎しもするもの。





3/18(金)

欺かれることは快かった。わたしはその瞬間にすっかり会得した、占領され、捉えられ、自分の意志ではないものの意志に従うのが如何に心地よく、最早抵抗する必要がないと知ることが如何に愉しいかを。

(福永武彦『死の島(上)』講談社文芸文庫 2013.2)



私は創作しているときにだけよい状態でいられる。創作しているとき、私は、人生の不快なことのすべてや、あらゆる苦しみを忘れるのだし、自分の思考に安らぎ、幸福である。ほんの数日だけでも創作を控えてしまえば、私は、すぐに弱々しくなり、困惑し、押しつぶされてしまい、頭は鈍く働かなくなってしまう。創作したいという衝動は、じつに豊かで汲みつくされることがなく、五、六年ものあいだ止むことなく存在し続けてきたあと、今でもまだ同じように豊かに湧き出し続けているのであって、このような衝動は、やはり、神の思し召しなのだろうと思う。万一にも、なお私の心のうちに湧き出し続けている思考の泉のすべてが涸れ果ててしまうようなことがあれば、それはこの上ない苦しみであり、苦難である。私は完全に無能となってしまうだろう。ではなぜそれが涸れ果ててしまうなどと言うのか?なぜなら、私は、自分にはまったくふさわしくないと自分でも理解しているようなことへと、懺悔の気持ちから、自分自身を無理強いすることによって、自分のことを苦しめようという考えをもっているからである。

(セーレン・キェルケゴールキェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ』鈴木祐丞 講談社 2016.4)



マーシャ:それでも意味は?
トゥーゼンバッハ:意味・・・・・・ほら雪がふつてゐます。どんな意味があります?

(チェーホフ『三人姉妹』湯浅芳子訳)