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灰色の記憶

日記 4/9-4/15

4/9(土)

3年前の今日、詩を書き始めた。




4/9(土)

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』(訳:冨原眞弓 岩波文庫 2010.2)

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(下)』(訳:冨原真弓 岩波文庫 2010.8)

福永武彦『夜の三部作』(P+D BOOKS 2016.8)

倉橋由美子夢の浮橋』(P+D BOOKS 2017.8)

を買った。




4/10(日)

昨日買ったヴェイユを少しずつ読み進めている




4/11(月)

苦悩を知らない魂は、無に等しい。

(皆川博子『薔薇密室』講談社 2004.9)




4/12(火)

選択の可能性が共益をそこなうまでに拡がりすぎると、人間は自由を愉しめなくなる。無責任、幼児性、無関心といった避難所、倦怠しかみいだせない避難所に逃げこむか、大きすぎる自由をもてあまし、自分がいつなんどき他人に害をおよぼすかと戦々恐々として責任の重さにうちひしがれるか、このいずれかを強いられるからだ。このような場合、自分は自由を所有していると勘違いし、あまつさえこの自由を享受していないと感じるので、あげくに自由など善ではないと考えるにいたる。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p23)



服従は魂に必要な糧であり、服従を決定的に奪われた人間は病に蝕まれる。だれにも釈明する必要のない最高指導者に統治される集団は、ひとりの病者の手におのれの命運をゆだねているのだ。

(p24)




4/13(水)

ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』(青木隆嘉訳 法政大学出版局 2017.5)を借りた。

大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』(新潮文庫 1986.2)

開高健『パニック・裸の王様 改版』(新潮文庫 2010.4)

吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫 1982.5)

辺見庸『眼の探索』(角川文庫 2001.3)

を買った。




4/14(木)

「〜的」「〜のように」「〜のようだ」などと言うとき、その「〜」に些かの偏見も含まれていないことがあるだろうか?




4/14(木)

赦しや赦しと称されるものは、実際は芝居であって、片方は優越しているふりをし、他方は人間にはできそうもないことを求めるふりをする。

(ハンナ・アーレント『思索日記 新装版Ⅰ 1950-1953』青木隆嘉訳 法政大学出版局 p5)



和解とは、起こるかもしれない事柄を度外視して現実と和解することである。

(p6)



自分の声を神の声と偽って裁いたりしない場合に初めて、神の怒りや神の恵みに従うと称する報復や赦しと無縁な生活を維持することができる。

(p9)



人が心を決めたら、鉋をかけると鉋屑が出るというわけで、もう友人の手の出しようはない。もう何もかも捨てようと決め、すべてを犠牲にしてしまっているからだ。何もかも屑なのだ。

(p16)



幸福は突発的に訪れるから、幸福によって打ちのめされる恐れがある。不幸は動きがのろいので、いつでもそれに合わせて対応する余裕がある。

(p20)



政治的動物。これでは人間の中に人間の本質の一部として、政治的なものが存在しているかのようだ。あいにくこれは正しくない。単数の人間は非政治的なものだからだ。政治は人々の〈間の領域〉に、つまり人間の外部に生じる。それゆえ真に政治的な実体というようなものは存在しないのだ。政治は〈間の領域〉に生じ、関係として確立する。このことをホッブズは心得ていた。

(p24)



個人のものがもはや存在しないところでは、確かに法律だけが完全に専制的に支配することができる。そこには予見されていなかったものはもはや何一つ存在しないからだ。

(p52)



単数の人間が哲学のテーマであり、複数の人間が政治のテーマだとすると、全体主義とは政治に対する「哲学」の勝利のしるしである───「哲学」に対する政治の勝利ではない。哲学の究極的勝利は、哲学者たちの最終的な絶滅にほかならないようである。おそらく哲学者たちは「余分なもの」になってしまうことだろう。

(p63)



制度を生み出した出来事が制度によって使い果たされるように、恋愛という出来事も、社会制度としての結婚によってすり潰されてしまう。出来事にもとづく制度が続くのは、出来事が完全に使い果たされてしまわないうちだけである。そのように使い果たされないのは、法律にもとづく制度に限られている。結婚は出来事と制度の点では常に二義的であるが、結婚が解消できないとされていた限り、結婚は本質的に愛の出来事でなく法律にもとづくものとされ、まさに一つの制度とみなされていたのである。
その後、愛の制度となったが、結婚は当時の大半の制度より少し脆いところがあった。愛が制度化されると、愛は完全に故郷も保護も失ってしまったからだ。

(p70)



傾向性が活動を停止するところで、道徳が始まる。義務と傾向性を対立させるのは全く無意味だ。なぜなら、傾向性が義務化されない限り、義務は現れないからである。傾向性が働いている限り、義務化された状態は義務でなく傾向性の延長のように傾向性には感じられるだろう。傾向性が活動を停止して初めて、義務が発生する。道徳も道徳的思考も、生気を欠き亡霊じみているのはこのためだ。活動が停止して初めて道徳が登場する。しかし、心情が荒廃しステップ化する危機にあっては、義務と道徳以外に逃げ道はない。荒廃が支配している限り、道徳には正当性があり、荒廃の支配が消えても、残念ながら、道徳には正当性がある。支配者がいない砂漠は、支配者がいる砂漠以上に恐ろしいものだからである。

(p77)



目的・手段の連鎖から逃れるために人間が自己目的とされたまさにそのとき、人間以外のすべての事物、自然全体は手段に貶められてしまった。その後、世界の冒瀆、世界の俗化は償いようがなかった。

(p81)



人間が自然の援助手段や救済手段───幼児死亡、洪水、旱魃、疾病、要するに大量死亡───をもはや認めようとせず、大地が供給できるより多くの食料を求めることは、彼らが自然に反するものとなったこと、大地はもはや彼らの故郷ではなくなったことを物語っている。これは現代世界における根本的な故郷喪失である。

(p83)



われわれが何者で、どう思われようと
誰に関わりがあろう
われわれが何をなし、どう考えようと
誰が反感を抱こう

燃え上がる炎に包まれ
焼けただれた空の下で
われわれの世界が
道を見失っているのだ

(p84-85)



製作における破壊の要素。樹木は伐採されて木材となる。物質であるのは樹木でなく木材だけだ。つまり物質はすでに人間の生産物であり、物質は破壊された自然なのである。「人間の所産」が出来上がるのは、人間に物質として与えられているかのように、人間が生きた自然を取り扱い、つまり人間がそれを自然として破壊することによる。木材は樹木の終わりだ。
神が創造したのは単数の人間であって、複数の人間でも民族でもなかったが、神が創造したのは自然であって物質ではなかった。
神が無から創造するとすれば、人間は被造物を破壊することによって創造する。その破壊によって、被造物は与えられたものへと変化し、創造された自然は与えられた物質になる。神は樹木を創造したが、人間は樹木を破壊して、木材を手に入れる。木材にはすでにテーブルといった目的が予示されている。樹木にはそういう目的を示すものは一つもない。

(p86)



心がここで捉えるべきものを
測ろうとするも
広さ、計り知れず

落ち行く者を受け止める底を
突き止めようと測るも
深さ、極めがたし

天空に炎と燃え上がるものを
見届けんとするも
高さ、及びもつかず

一瞬の停滞にも耐えきれず
未来に望みを託すも
死、逃れようもなし

(p120-121)



生き残る


死者と共に生きる道を教え給え
彼らとの交わりをなだめ
接近を拒まれたいと願う仕草も同様に
なだめる声はどこにあるのか

彼らをわれわれから遠ざけ
虚ろな目にベールをかける嘆きを誰が知ろう
彼の不在に慣れるように手伝うのは何だろう
気が変わって生き残れる様に助けるのは何だろう

胸を突く想いは胸をえぐる短剣のようだ。

(p125)




4/15(金)

・細井和喜蔵『女工哀史』(岩波文庫 1954.7)

アナイス・ニン『小鳥たち』(矢川澄子訳 新潮社 2003.4)(文庫版を既に読んでいる)

・『ラヴクラフト全集 別巻下』(大瀧啓裕訳 創元推理文庫 2007.12)(これでラヴクラフト全集を全て集め終えた)

を買った。




4/15(金)

たえざる恐怖がたんなる潜在状態の域にとどまり、ごく稀にしか苦しみとして感じられないとしても、病であることに変わりはない。それは魂の半麻痺状態である。

(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p52)