5/7(土)
置き換えができないものは真理ではない。同様に、視座によって外観を変えないものは実体をそなえた物質ではなく、実体を装っただまし絵にすぎない。
(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p98)
愛なき偶像崇拝、これ以上におぞましく悲しいものがあるだろうか。
(p185)
5/8(日)
・ハンナ・アレント『責任と判断』(中山元訳 ちくま学芸文庫 2016.8)
・ウィトゲンシュタイン『『秘密の日記』 第一次世界大戦と『論理哲学論考』』(丸山空大訳 春秋社 2016.4)
・ワレリイ・ブリューソフ『南十字星共和国』(草鹿外吉訳 白水Uブックス 2016.3)
を借りた。
5/8(月)
見守るという意思及び行為は「あなたのことを決して忘れない」という切実な愛を前提としている
5/9(月)
病院にいった。
5/10(火)
5/11(水)
しかしわたしにもっとも大切だったのは言語でした。そしてヨーロッパ文明のために何かを意識的に行ったことがあるとすれば、それはわたしがドイツから逃げだしたときから、母語としてのドイツ語を決して失わないようにしようと決意していたことでしょう。どんな言語を使えるようになったとしても、使わざるをえなくなったとしても、それを母語とはしないという固い決意をいだいていたのです。
(ハンナ・アレント『責任と判断』中山元訳 ちくま学芸文庫 p10-11)
アゴタ・クリストフの自伝に出てきた『敵語』という言葉を思い出す。
5/11(水)
そして公的に名を知られること、すなわち名声を獲得することさえ、ハイデガーのいう本来性の欠如、「彼ら」によってみずからを汚すこと、ベルクソンのいう「社会的な自己」によってみずからを汚すこと、オーデンの「忌まわしい機械的な金切り声」という俗っぽさによって、みずからの言葉を腐敗させることであるかのように感じてきたのです。
(p19)
わたしたちは法の知識をもたずに、どのようにして善と悪を区別するのでしょうか。そしてまったく同じ状況に身をおいていないのに、どのようにして、他者について判決を下すのでしょうか。
(p38)
道徳の問題が発生するのは、「強制的同一化」の現象が発生してからのことです。恐怖に怯えた偽善からではなく、歴史の〈列車〉に乗り遅れまいとする気持ちが、早い時期に生まれるようになってからです。この気持ちが生まれたからこそ、生活のすべての分野において、文化のすべての領域において、公的な人物の大部分がまさに一夜にして、自分の意見を変えたのです。それも信じられないほど簡単に意見を変えたのです。それは、生涯にわたる友愛の絆を断ち、破壊したのでした。要するにわたしたちを困惑させたのは、敵の行動ではなく、こうした状況をもたらすために何もしなかった友人たちのふるまいだったのです。
(p42)
道徳という観点からは、何も罪を犯していないのに自分が有罪だと感じるのは、実際に罪を犯しておきながら、自分は無罪だと考えるのと同じように、間違ったことなのです。
(p48)
集団的な罪とか、集団的な無実のようなものはありません。罪と無実の概念は、個人に適用されなければ意味をなさないのです。
(p49)
安寧とは危険の不在を意味しない。この世界に危険はつきものだから。そうではなく、危機にさいして首尾よくきりぬける合理的な見込みを意味する。
(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(上)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p237)
はかないものへの憐れみはつねに真に美しいものへの愛とむすびつく。真に美しい事象は永遠の存在を保証されるべきなのに事実はそうでないことを、われわれは切実に感じとっているからだ。
(p247)
5/12(木)
どんな絶望的な状況においても、強さと力をわずかながらも残すことができるのは、まさに自分の無能力をみずから認めることによってなのです。
(ハンナ・アレント『責任と判断』中山元訳 ちくま学芸文庫 p75)
5/13(金)
発作的に詩を書く
5/13(金)
神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房 2004.10)を買った。
5/13(金)
部分的な喪失は、存在にとって生き残りながら死ぬ方法だ。喪失の恐怖から逃れようとするなんて、どうかしている。欲望は、できる限りの恐怖を呼び求める───耐えられなくなる限界まで。我慢の続く限り、死に近づかなければならない。卒倒することなく───だが必要ならば、まさに卒倒しながら。
……そして必要ならば、まさに死にながら。
(ジョルジュ・バタイユ『有罪者 無神学大全』江澤健一郎訳 河出文庫 p180)
道化がいつまで續くのだ。俺は自分の無邪氣に泣き出したくなる。生活とは風來の道化である。