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灰色の記憶

日記 6/4-6/10

6/4(土)

悲しみだけが 人の世のさだめだとしたら
死によって限られる日々が
歎きの雲で 覆いつくされるとしたら
人間に授けられた この呼吸はむなしいだろう

(ルイス・キャロル「孤独」)




6/5(日)

詩を書いている




6/6(月)

あなたの想像と私の現実が重なった時、あなたにまた会える気がするから




6/7(火)

静けさに聾される、か。




6/7(火)

一条の希望の光がついに暗黒の空に射し込むようになるには、ときに深淵の底に達しなければならない。

(ミシェル・トゥルニエ『魔王(上)』植田祐次みすず書房 p34)


存在への拒絶が無言のざわめきのようにおれのなかでこみ上げてきた。

(p35)




6/8(水)

北杜夫『幽霊 或る幼年と青春の物語』(新潮文庫 1965.11)を買った。




6/9(木)

「人間の生涯で、自分の運命が倒錯に捧げられていることについて偶然に発見すること以上に感動的なことはおそらくないだろう」

(ミシェル・トゥルニエ『魔王(上)』植田祐次みすず書房 p63)




6/10(金)

運命は目にこそ見えないが、避けられない仕方で現前し、そしてそのことをおれが忘れないように監視するばかりでなく、そう欲してもいるのだ。

(ミシェル・トゥルニエ『魔王(上)』植田祐次みすず書房 p80)


おれが「肉が好きだ、血が好きだ、生き身が好きだ」と言うとき、重要なのは好きだという動詞だけなのだ。おれは愛のかたまりのようなものだ。動物が好きだから、肉を食うのが好きなのだ。自分の手で育て、自分の命を分け与えたような動物を、自分の手で喉を切って殺し、愛情こもる食欲を感じながら食うこともできるだろうとさえ思う。匿名の、非人称の肉を食べるよりはるかに豊かな、はるかに深い味覚をもって、おれはその動物を食べさえするかもしれない。それこそまさに、トゥーピー嬢のような女におれがむなしく理解させようとしたことだ。あの女ときたら屠殺場を怖がって菜食主義者になっているのだから。だれもがあの女のようにすれば、大部分の家畜はわれわれの風景から消えて、それは実に味気ないものになるだろうということがどうしてあの女に分からないのだろう。自動車が奴隷状態から馬を解放するにつれて馬がその姿を消しつつあるように、家畜はいなくなるだろう。

(p87)


われはきく、よもすがら、わが胸の上に、君眠る時、
吾は聴く、夜の静寂に、滴の落つるを将、落つるを。
常にかつ近み、かつ遠み、絶間なく落つるをきく、
夜もすがら、君眠る時、君眠る時、われひとりして。

(ガブリエレ・ダンヌンチオ「声曲」)




6/10(金)

夕立があった。


ミシェル・トゥルニエ『気象(メテオール)』(榊原晃三、南条郁子訳 国書刊行会 1991.8)

セリーヌ『夜の果てへの旅(上)』(生田耕作訳 中公文庫 2003.12)

・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』(中野康司訳 白水Uブックス 1996.9)

・『ディラン・トマス全詩集』(松田幸雄青土社 2005.11)

マルグリット・デュラス『廊下で座っているおとこ』(小沼純一訳 書肆山田 1994.3)

皆川博子『蝶』(文藝春秋 2005.12)

を借りた。


日野啓三が気になっている。