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灰色の記憶

日記 1/1-3/31(2024)

1/1(月)

本当のところ愛する者だけが相手を傷つけることができるのだ。

(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『闇を讃えて』斎藤幸男訳 水声社 p8)

 


誤りだけがわれわれのものだ。

(p11)

 


これらのしるしはわたしの永遠からこぼれ落ちるのだ。

(p21)

 


われらはわれらの記憶、
常ならぬ形象にあふれた空想の博物館、
破れた鏡の寄せ集めにすぎない。

(p29)

 


代る代るに演じてきた自分をもはや覚えていないわたしは
単調極まりない壁と壁とが取り巻く
厭わしい道、運命を今なぞり行くのだ。

(p38)

 


わたしはあなたが知らずに救う人々なのだ。

(p103)

 

 

 

1/2(火)その1

辻邦生  全短篇1』(中公文庫 1986.3)を買った。

 

 


1/2(火)その2

新しい神は、夜の暗い渾沌の中で、死に直面することによって現前する。

(ジョルジュ・バタイユ『蠱惑の夜』若林真訳、講談社、1957.10 、p7)

 

 

 

1/3(水)その1

高橋和巳悲の器』(新潮文庫 1967.8)

 

フォークナー野生の棕櫚』(加島祥造訳 中公文庫 2023.11)

 

ティーヴ・エリクソン黒い時計の旅』(柴田元幸福武書店 1990.10)

 

を買った。

 

 

 

1/3(水)その2

おれは自分の書く一語一語におののきながら書く。書くことによっておれは解放されはしない。おれの中には依然として深淵が口を開け、おれは重荷を背負ったままだ。

(スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』柴田元幸福武書店 p64)

 

 

 

1/4(木)その1

ボルヘス詩集』(鼓直訳編 海外詩文庫 1998.12)を買った。

 

 


1/4(木)その2

詩と芸術は、ときおり人間が生に対して無暴にも試みる何ものにも屈せぬ必死の要請の中で人間を変貌させるものすべてに対して、いつも偏愛を示しつづけるだろう。

(アンドレ・ブルトン『秘法十七』入沢康夫人文書院 p22)

 


いまこの瞬間をできる限り楽しんでみても、私は魂の奥底に生ずる動揺を十分には乗りこえられない。私のうちでは、私自身の立場がいままさにこのときにいっそう特権的なものであるということが、彼方であんなに数多い人々を恐怖や憎悪や殺戮や飢餓にさらしている運命の不公平さについての意識を、対比的にいっそう強くする。

(p24)

 


不幸は、その中に身を置いていると、じつに大きく、心はそれだけでいっぱいになるため、それに見合う不幸を過去の時代に探そうなどという気にはなかなかなれないものだが、しかし、そうすることが、なにがしかの希望をよみがえらせるかもしれないのである。

(p27)

 

 

 

1/5(金)

通所215日目。

 

 

 

1/6(土)その1

通所216日目。

 

 


1/6(土)その2

僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

(ポール・ニザン『アデン、アラビア』小野正嗣訳)

 


ただ僕たちがそこに見ていると思っていたのは、終わりの、本当の終わりの始まりなのであって、そこから何かが始まろうとしている終わりではなかった。

(同上)

 

 

 

1/7(日)その1

呪われた部分  ジョルジュ・バタイユ著作集』(生田耕作訳 二見書房 1973.12)を買った。

 

 


1/7(日)その2

......見事な生涯ってのはね、建築家が壊す楽しみのために家を建てたり、作家がただ火にくべるためだけに本を書くような一生だよ。

(ポール・ニザン『陰謀』鈴木道彦訳)

 

 

 

1/8(月)その1

頭痛。人混みの中にいたわけではないのだが。この頃の睡眠不足が祟ったか。

 

 

 

1/8(月)その2

林芙美子  巴里の恋』(今川英子中央公論新社 2001.8)を買った。

 

 

 

1/9(火)

通所217日目。頭痛止む。

 

 

 

1/10(水)その1

通所218日目。

 

 


1/10(水)その2

・『死ぬための生き方』(新潮社 1988.5)

 

・『日本文学全集45  大岡昇平』(新潮社 1967.9)

 

を買った。

 

 

 

1/11(木)

寒い。電車が遅れていて、ホームの冷たい椅子に座り、大江を読んでいる。

池袋三省堂の古本市を見てきた。気づいたら3時間以上経っていた。良い買い物ができた。

見たことのないラーメン屋でラーメンを食べた。左隣に座った外国人カップルが微笑ましかった。何語を話しているのかはわからなかった。

サンシャインに行き、往来座に行き、ジュンク堂に行き、最後にまた古本市を一周して帰路に着いた。

 

 

買ったもの

小川国夫血と幻』(小沢書店 1979.10)

 

・『ロートレアモン全集』(栗田勇人文書院 1968.5)

 

マヌエル・プイグ天使の恥部』(安藤哲行国書刊行会 1989.8)

 

辻邦󠄂生橄欖の小枝  芸術論集』(中央公論社 1980.11)

 

辻邦生夜ひらく』(集英社 1988.3)

 

ボードレールパリの憂愁 改訳』(福永武彦岩波文庫 1966.1)

 

D・H・ロレンス翼ある蛇(上)』(宮西豊逸訳 角川文庫リバイバルコレクション 1963.7)

 

D・H・ロレンス翼ある蛇(下)』(宮西豊逸訳 角川文庫リバイバルコレクション 1963.8)

 

中井英夫人外境通信』(講談社文庫 1986.3)

 

 

 

1/12(金)

通所219日目。

 

 

 

1/13(土)その1

伊藤整若い詩人の肖像』(新潮文庫 1958.12)を買った。

 

 


1/13(土)その2

彼にはこんな世界に対して責任があっただろうか?

(ミシェル・ウエルベック『滅ぼす(上)』野崎歓・齋藤可津子・木内尭訳 河出書房新社 p114)

 


お前は特別なんだよと教えるために語られてきたこの物語には一度も心惹かれなかった。

(フアン・ビジョーロ『証人』山辺弦訳 水声社 p66)

 


《きみの元から逃げ出すことで感じる、手の込んだ幸福》

(p78)

 


真っ当な人生というものは悪事を糧にして成り立っている、真っ当と言ってもその実平凡だったり、興味を惹くものであったり、まさしく真っ当と言うべきだったりする人生なのだろうが、それは実行に移されなかった悪事や、悪事の名に値しない悪事や、意味があるとは言い切れない悪事によって成り立っているんだ、そう考えるのがフリオは好きだった。

(p82)

 


この悲惨さを癒してくれるものなんか何もない。逃げられたとしても、痛みと穢れはついてまわるだろう。

(p85)

 


ここにあるのは生気のない過去ではなく、張り詰めた進行形の過去だった。

(p93)

 


信仰を持つ者にとっては、苦痛は喜びなんだ。

(p144)

 

 

 

1/14(日)

暗い詩を書くんだね
いや  きみが明るすぎるんだ
ひとを殺せるほどの  明るさだ
時に照らすことは
罪になる
罪を軽くするか、耐えるには
観客でいることをやめるしかない

 

 

 

1/15(月)

久坂葉子の本ありますか、と店員に尋ねている人を見かけた。久坂、いいよな。

 

 

 

1/16(火)

通所220日目。

 

 

 

1/17(水)その1

通所221日目。

 

 


1/17(水)その2

気狂い Insanity は知力の欠如であるが、狂気は知力のもうひとつ別の作用にすぎない。狂気は解剖学的に云々することは不可能で、規定できない。心理学的見地からすれば、狂気は正気と同じ状態のことなのである。

(ヴィクター・W・フォン・ハーゲン『エル・ドラード』浜洋訳 大陸書房 1976.3)

 

 

 

1/18(木)

暗闇を二重にすることで俺は自分を試しているんだろうか?

(ドン・デリーロ『ゼロK』日吉信貴訳 水声社 p28)

 

 

 

1/19(金)その1

通所222日目。

 

 


1/19(金)その2

吉行淳之介鞄の中身』(講談社文芸文庫 1990.5)を買った。

 

 

 

1/20(土)

オクタビオ・パス鷲か太陽か?』(野谷文昭岩波文庫 2024.1)を買った。

 

 

 

1/21(日)

詩を書いた

 

 

 

1/22(月)

お前の基底を徹底的に壊してやる、お前を土台から引き剝がしてやる。

(オクタビオ・パス『鷲か太陽か?』野谷文昭岩波文庫 p19)

 


夢を見る目的は、嫌悪すること、激昂させること、破門すること、追放すること、相続権を奪うこと、放逐すること、攪乱すること、分離すること、放出すること、擦り傷をつけること、発掘すること、唾を吐くこと、潰瘍を生じること、(秘蹟を)排泄すること、強請ること、(沈黙を)憔悴させること、罪を償うことだ。

(p31)

 


その果てしないフレーズには、始めも、終りも、意味もない。

(p37)

 

 

 

1/23(火)

通所223日目。

 

 

 

1/24(水)

通所224日目。

 

 

 

1/25(木)その1

通所225日目。

 

 


1/25(木)その2

佐藤亜紀吸血鬼』(講談社 2016.1)を買った。

 

 

 

1/26(金)その1

通所226日目。

 

 

 

1/26(金)その2

 私たちはある人間にしかるべき時点で出くわし、自分にとって重要なすべてをこの人間から摂取する、と私は考えた、そしてふたたびしかるべき時点でこの人間から去ってゆく、と私は考えた。

(トーマス・ベルンハルト『樵る  激情』初見基河出書房新社 p179)

 


私にはこれ以上幸運な道を理想的な道として歩むことはできなかっただろう、と私はいま考えた。

(p181)

 


私たちは長いあいだある人間の一面しか見ていない、自己保存本能から別な面を見ようとしないからだ、と私は考えた、それが突然、そのような人間のすべての面を見て反感を覚える、と私は考えた。

(p188)

 

 

 

1/27(土)その1

通所227日目。

 

 


1/27(土)その2

テレビで立原道造の設計したヒアシンスハウスが紹介されていた。

 

 

 

1/28(日)

・『イギリス美術叢書Ⅵ  エロスとタナトス、あるいは愉悦と戦慄  ジョゼフ・ライト・オヴ・ダービーからポール・ナッシュへ』(ありな書房 2021.9)

 

福田和彦「裸婦」エロティック・アート100年の歩み』(実業之日本社 1984.10)

 

筒井康隆蓮實重彥笑犬楼vs.偽伯爵』(新潮社 2022.12)

 

津原泰水蘆屋家の崩壊』(集英社 1999.6)

 

を買った。

 

 

 

1/29(月)その1

・『ポール・デルヴォー 増補新版(シュルレアリスムと画家叢書  骰子の7の目)』(河出書房新社 2006.7)


谷川渥書物のエロティックス』(右文書院 2014.4)

 

アゴタ・クリストフ昨日』(堀茂樹早川書房 1995.11)

 

内田百閒冥途・旅順入城式』(岩波文庫 1990.11)

 

ルソー孤独な散歩者の夢想  改版』(青柳瑞穂訳 新潮文庫 1969.2)

 

を買った。

 

 


1/29(月)その2

病院にいった。空いていた。

 

 

 

1/30(火)その1

通所228日目。

 

 


1/30(火)その2

約束を信じながら  信じた
約束のとおりになることが
いたましくないか

(石原吉郎「夜がやって来る」)

 

 

 

1/31(水)

通所229日目。

 

 

 

2/1(木)

中村善也ギリシア悲劇入門』(岩波新書 1974.1)を買った。

 

 

 

2/2(金)その1

通所230日目。

 

 


2/2(金)その2

藤井繁群青  トマス・ハーディ「世紀末への挽歌」』(コプレス 2012.2)

 

・『世界の文学49  サルトル  ビュトール』(中央公論社  1964.1)

 

・『ユリイカ  特集マンディアルグ』(青土社 1992.9)

 

を買った。

 

 

 

2/3(土)その1

あらゆる対話は間違いから始まる

 

 


2/3(土)その2

(私はこの夢を形づくった。この夢は私たちを跡形もなくすりへらしてしまった。)

(『サン=ジョン・ペルス詩集』多田智満子訳 思潮社 p22)

 


すべては微光の王国と境界に他ならなかった。そして影と光とは  あのころ  もっと同じものであった……

(p26)

 


おお  それは純粋の嗚咽、救われることを望まず、ただそれだけのことだ、もうそれは大きな暁の星のように  私の額をゆすっている。

(p29-30)

 


実現されなかったもろもろの可能性は沈黙のための一種の養分であることを、人々はもはや知らないのである。沈黙は、それらの実現されなかった可能性によって強められ、かくしてまた自己を実現した他のすべての可能性を強力に養うのである。

(マックス・ピカート『沈黙の世界』佐野利勝訳 みすず書房 p64)

 


一民族全体において、長期間にわたり一つの可能性が​───たとえば文芸の可能性が​───現われて来ないことがしばしばある。しかし、だからといって文芸の可能性が欠けているわけではない。その可能性が自己を実現しないだけである。可能性はただ沈黙のうちで充分に休養しているだけのことなのだ。可能性は沈黙のなかで元気を回復しているのである。それでも、そのような沈黙のなかには美が宿っていて、そしてこの美は、沈黙しながら万事を潤している詩から生れて来るものに他ならないのである。

(p65)

 


ひとりの人間のなかに沈黙の実体が存在している場合には、彼のあらゆる個性はこの沈黙の実体のなかで一つの中心にむかって統一される。というのは、それぞれの個性は先ず第一に沈黙と連関し、そのうえで始めてお互いに連関しあうからである。従って、そこでは一つの個性の欠陥は沈黙によってしっかりと捉えられるから、その欠陥がそう容易に他のもろもろの個性に感染することはない。ところが、沈黙の実体が欠けている場合には、人間はたった一つの欠陥によって隅々まで滲透されることもあり得ないことではない。かくして彼はもはや一個の人間であることを止めてしまう。人間は完全に単なる欠陥そのものになり果てるのである。それはあたかも、欠陥自体が、悪そのものが、わずかに人間の形態でもって​───仮面としての人間の形態でもって​───蔽われて存在しているかのような有様なのである。

(p67)

 


沈黙から生ずる言葉は、沈黙から賦与された根源的な力でもって対象を包むのである。かくて、対象は言葉のもっている根源性の一部を獲得する。対象は言葉によって高められ、そして、その本質はより豊富になるのである。
言葉が根源的なるものの力を喪失してしまえば、それは単なる音声になるのであって、音声なるものはただ対象の表面に触れることしか出来ない。音声は事物に標識を貼りつけるだけなのだ。そうなれば、言葉の音声、この言葉のレッテルは、まるで事物などはないかのように、自分たちのあいだで​​───言葉のレッテル同士だけで───生活する。そしてもろもろの事物も自分たちのあいだで​───事物同士で───生活する。何故なら、言葉が毀れておれば、言葉は事物を保持することが出来ず、事物は言葉から離れ去るからである。かくて事物はあらゆる規準を失い、過度に増大する。だから、ここでは(例えば現代世界におけるように)まるで人間などもはや全くいないかのように、事物が事物を産むのである。そして、いかなる事物も​───新しい事物でさえも───もはや新しいものとしては現われない。何故なら、あらゆるものはずっと以前からの一連の経過の単なる一部のようなものにすぎず、すでに今までにも絶えず存在していたようなものだからである。あらゆるものが余分で、そして退屈なものにみえるのはそのためなのだ。
かくて、もろもろの事物は人間に背をむける。たとえば博物館の広間に置かれている古代の神々の彫像はどうであろう。……時として、それらの彫像は一種の叛徒のようにそこに立っている。それらは拒絶的である。それらはもはや人間に何ごとをも語らない。文字通り何ごとをも人間に語らないのである。それらは手をとりあって、まるで一枚の白い壁のようにそこに立っている。

(p79-80)

 


苦悩は、それが世界のなかに宿っている大いなる沈黙から解き放たれて、歴史の喧騒の単なる一部となるとき、つまりそれが沈黙から解き放たれて自己自身を背負わねばならなくなるとき、はじめて耐えがたいものとなるのだ。

(p85)

 


言葉が語っている所では、予兆はもはや語る必要がない。実際、予兆はもはや敢えて語ろうとはしないのである。それに反して、今日のように、言葉がその堅固さを失い、明確でなくなってしまえば、人間はふたたび予兆をもとめるのだ。しかし、予兆はもはやかつてのように一つの真実を指し示しはしない。予兆はただ、言葉が破壊されていることを示すだけである。予兆が存在するのは、ただ言葉が破壊されたために他ならないのである。もっとも、破壊された言葉自身がなにか前兆めいている。しかし、それが前兆めいているのは、幽霊が前兆めいているのと何の選ぶところもない。つまり、それは未来を指し示すのではなく、過去を、即ち破壊された言葉の廃墟を指し示すのである。

(p88)

 


精神分析学は夢の本質的なもの、つまり夢の沈黙の力を破壊し、それを分析という騒がしい討論にゆずり渡す。精神分析者の夢の分析は、喧騒による夢の沈黙の世界の占領なのだ。

(p96)

 

 

 

2/4(日)

高山宏が読みたい

 

 

 

2/5(月)

視えないS、視えないV、視えないO、視えないC、視えないMを視ようとする態度自体が詩人なのではないだろうか?

 

 

 

2/6(火)

詩人はみずからの虚構の世界に登場する人物の一人一人であり、個々の吐息、個々の細部である。

(J・L・ボルヘスボルヘスの「神曲」講義』竹村文彦国書刊行会 p21)

 


いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことだろう。はっきり理解するために日記をつけること。取るに足りぬことのようでも、色合いを、小さな事実を、見のがさないこと。そして特に分類してみること。どういうふうに私が、このテーブルを、通りを、人びとを、刻みたばこ入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変わったのは〈そっち〉だからである。この変化の範囲と性質を、明確に決定しなければならない。

(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 


こんな規則正しい世の中に、なにをこわがることがあろうか。私はもう自分が癒ったものと思う。

(同上)

 

 

 

2/7(水)

通所231日目。

 

 

 

2/8(木)

大類信ヌード1900-1960』(河出文庫 1993.3)を買った。

 

 

 

2/9(金)

通所232日目。

 

 

 

2/10(土)その1

Paroles - Jacques Prévert(1946)を買った。

 

 

 

2/10(土)その2

アルコールがあればたいていのことに耐えられる。そもそも、それがアルコールの大きな問題の一つだった。

(ミシェル・ウエルベック『滅ぼす』p160)

 

 

 

2/11(日)

意識を有するものは衰弱の精華である。

(『E.M.シオラン選集4  時間への失墜』金井裕訳 国文社 p17)

 


言葉にならぬ祈り、内部で繰り返されては感覚麻痺やオルガスムにいたる祈り、それは一個の観念よりも、あらゆる観念よりも重いのだ。

(p22)

 

 

 

2/12(月)

修道女に率いられた寄宿学校の女生徒たちや、農婦の一団、近在の男たちなどがあちらこちらの回廊から現れ、聖母像の前に深く頭を垂れて、柱に近づいては、これに接吻してゆく。
信徒たちを眺めながらデュルタルは考えた、この人たちのお祈りは、一日一杯の苦しい労働にうちひしがれた女たちが、夕闇の片隅で涙にむせびながらあげる祈りとは何という違いだろう、と。この農婦たちは、己が身の不運を悲しみ嘆きつつ祈るというよりは、むしろマリアへの愛に駆られて祈っている。聖堂の舗石に跪きつつ、この一群の信徒は自分のためというよりは聖母マリアのために祈っている。

(ユイスマン『大伽藍』出口裕弘桃源社 p12)

 


デュルタルは周囲で我を忘れて祈っている人々の祈禱の声が、自分の中にも谺となって響くのを知った。彼は讃歌の甘美な旋律に溶けこんで、もはや何ごとをも求めず、叶えられぬかずかずの願望を眠らせ、秘かな不平不満を押し隠し、聖母にはただ情愛をこめつつ朝の挨拶をすることのみを願った。

(p13)

 


信仰の神秘には境界線があって、そこでは奇跡のように傷から流れる血が止まったり、ふたたび傷に戻ったりするものなのか?

(フアン・ビジョーロ『証人』山辺弦訳 水声社 p189)

 


「人をパニックにするのが大好きな奴だ。だから文学批評をやってるんだよ」

(p200)

 

 

 

2/13(火)その1

通所233日目。

 

 


2/13(火)その2

マックス・ピカート沈黙の世界』(佐野利勝訳 みすず書房 1964.2)を買った。

 

 

 

2/14(水)

通所234日目。

 

 

 

2/15(木)

アナイス・ニンヘンリー&ジューン』(杉崎和子訳 角川文庫 1990.12)を買った。

 

 

 

2/16(金)

通所235日目。

 

 

 

2/17(土)

記憶は
その潮汐を力説し
それ自身の正午を繰りかえす

(オクタビオ・パス「ヴリンダバン」)

 


ぼくは暗闇のなかを進み
記号を植えるのだ

(オクタビオ・パス「ヴリンダバン」)

 


うす汚れた光が  わたしの空の花々を
広大な威厳にみちた平原を焦がしている。
この長い流浪の哀しみを  わたしはうたいたいのだが
ああ  この唇まで  海が満ちてきたようだ。

(リカルド・E・モリナリ「長い哀しみへのオード」)

 


おまえたちにわたしは告げる
すべては欺かれた
飢えと無知の土地に
さいわいの契約は存在しないと。

(ルイサ・フトランスキー「アメリ詩篇」)

 


今日  そして明日も
そのように執拗な苦悩で欺きつづけよ
ただ  生命の偶然が
死の偶然が
真実の声を閉じこめて  悪臭を放っている窪の中で
再び  わたしにその名を名指しさせるだろう。

(ルイサ・フトランスキー「アメリ詩篇」)

 


そして  わたしたちの恐れにもかかわらず
その始まりは揺るぎはしない。

(ルイサ・フトランスキー「アメリ詩篇」)

 

 

 

2/18(日)その1

中野重治五勺の酒  萩のもんかきや』(講談社文芸文庫 1992.8)

 

大江健三郎ヒロシマ・ノート』(岩波新書 1965.6)

 

を買った。

 

 

 

2/18(日)その2

言葉を愛せば愛するほど、ひとは言葉を発さなくなっていく。

 

 

 

2/19(月)

そこは終わっている、あるいは終わりかけている場所なのだが、ただ、なんの終わりなのかがわからない。

(ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『過去を売る男』木下眞穂訳 白水社 p68)

 


ぼくらが真の意味で幸せなのは、永遠の中にいるときだ、何もかもがいつまでも続くところに住んでいるのは子どもだけなんだから。

(p95)

 


生と本とでは、どちらを選ぶかと訊かれたら、いいこと、本を選びなさい

(p99)

 

 

 

2/20(火)その1

通所236日目。

 

 


2/20(火)その2

劉慈欣三体』(大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳 立原透耶監修 ハヤカワ文庫SF 2024.2)を買った。

 

 

 

2/21(水)その1

通所237日目。

 

 


2/21(水)その2

つまり、人類のすべての行為は悪であり、悪こそが人類の本質であって、悪だと気づく部分が人によって違うだけなのではないか。

(劉慈欣『三体』大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳 立原透耶監修 ハヤカワ文庫SF p42)

 


内側の世界と、外側の世界。どちらが現実なのか?

(p87)

 

 

 

2/22(木)

気分が悪い。

 

 

 

2/23(金)

通所238日目。

 

 

 

2/24(土)その1

通所239日目。久々の晴れ。

 

 


2/24(土)その2

「それが愛だと思ってるのか」

(劉慈欣『火守』池澤春菜KADOKAWA p12)

 


世界体験の原理は「認識」ではなく「価値評価」である。これはどういうことか。ニーチェが明らかにしている問題の力点をつぎのように整理することができる。
第一。一方に「客観存在」があって、他方にそれについての正確な、あるいは不正確な「認識」があるのではない。そうではなくて、一方に存在のカオス(混沌)があって、他方に「生の力」によるその「解釈」がある。「生の力」による世界の「解釈」、これが「価値評価」ということにほかならない。
第二。したがって、「真理」なるものは、存在するものの正しい「認識」ということをまったく意味しない。「真理」とは、強力な、他を圧倒する、公認された、権力を持った、勝利した、「価値評価」にすぎない。
第三。だからまた、客観存在、正確な認識、これこれが正しいと信じる主観、真理、それを司るものとしての神、究極目的、本当の世界、そういった伝統的哲学(形而上学)のパラダイムは、すべて「没落」すべきものである。
第四。新しい哲学のパラダイムは、したがって、「力」の思想、生命がその力の保存と成長のために発動する「力」の構造として、根底から組み直されなくてはならない。

(竹田青嗣『エロスの世界像』講談社学術文庫 p12-13)

 

 

 

2/25(日)

すなわち、狂気とは理性の抽象的喪失ではなくて、単なる乱調、「理性の内部における単なる矛盾」として想定されるべきである、つまり、原則として狂女とは、端的に理性的存在と想定され前提されるべきだ、とヘーゲルは書いている。

(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヒステリーの発明〈上〉』谷川多佳子・和田ゆりえ訳 みすず書房 p15)

 


偽善とは、偽装された真理についての内密の意識を、万人を前にした真理の偽装の受け入れへと両義的に置き換えること、置換、しかもこの置き換え自体を無視することである。

(p18)

 

 

 

2/26(月)

元気になりたい

 

 

 

2/27(火)その1

通所240日目。

 

 


2/27(火)その2

異常な存在とは、通常の存在よりいくらか未来の少ないものを言う。それらの存在は、かくれた矛盾をふくむ多くの思想に似ている。それらの思想が精神に生まれ出ると、いかにも正しくまた豊饒なものに見えるけれども、それらの帰結がそれらをほろぼし去るのであり、それらの存在そのものが、やがて、それらに死をもたらすこととなる。

(ヴァレリー『テスト氏  未完の物語』粟津則雄訳 現代思潮新社 p8-9)

 


十一月十九日
昨日は朝からぜえぜえだった。はじめはいきおいよく戦っていたが、だれも、お母様でさえもしんせつをしてくれないので勇気はなくなったまんまだった。勇気があるのとないのと、にく体上かわりはないが、せいしん上大きなえいきょうがある。ところが昨日はだれもしんせつをしてくれなかった。
お父様はしんせつでやったのかどうか、部屋の空気を暖めたらいいといって暖めはじめた。私はだまっていたがいきがつまりそうになったので、お母様をよんだのにだれも気がつかない。
お父様が上ってきて「空気が暖かくなったらなおる」といった。いきがつまりそうで苦しくてしょうがないから「窓あけて!」とさけんだら、お父様は窓をあけてくれたが、かんかんにおこってなんとかかんとかいってから向うへ行った。
私はお父様のこう意にはんたいしてわるかったかもしれない。しかし「つめたい空気を!」という言葉よりも「しんせつな空気を!」という言葉を体のしぜんがようきゅうしたのではなかったか?
あの時、もうこれ以上苦しくなれるとは思わなかった。ほんとうに死んでしまいそうだった。部屋の空気を暖めたのは、私へのしんせつでなくて、自分へのしんせつではなかったか?なぜといえば、お父様は私が病気のためいくら働いてもお金がたまらん、幸せにもなれないと思っている。そのような心が、にんげんの良心のように小さな声でいっている言葉をききわけられるか?
わたしは今、精神の病気にもかかろうとしているのではないかしら?だれも愛、しんせつ、心からの同じょう、しどうをわたしにあたえてくれる人がいない。

(『ユキの日記  病める少女の20年』笠原嘉編 みすず書房 p22)

 

 

 

2/28(水)

通所241日目。

 

 

 

2/29(木)その1

粟津則雄雪のなかのアダージョ』(新潮社 1998.6)

 

フランソワ=オリヴィエ・ルソー年下のひと』(吉田良子訳 角川文庫 2000.4)

 

を買った。

 

 


2/29(木)その2

どうしたいのと訊かれてもわからない。どうしたいのかがわかっていることや決めることがそんなに偉いのか?わからないまま死んだらお前は鼻で笑うのか。そんな奴の語る幸福も、承認も、自己実現も全部ゴミだ。

新規性のない、ステレオタイプの偽善者。

 

 

 

3/1(金)

通所242日目。

 

 

 

3/2(土)

アニー・エルノー嫉妬/事件』(堀茂樹・菊地よしみ訳 ハヤカワepi文庫 2022.10)を買った。

 

 

 

3/3(日)その1

生活の合間に外の世界の惨劇と向き合うことに言い表せない罪悪感があったけれど、自分さえ幸せでいればいいと思っている人間よりは幾分ましだと己に言い聞かせ、どうせ偽善者だと言われるのなら少しでも誠実な偽善者であろうと思ったのでした。

 

 


3/3(日)その2

村上龍自選小説集1  消費される青春』(集英社 1997.6)を買った。

 

 

 

3/4(月)

人がもはや私と言わない地点に到達するのではなく、私と言うか言わないかが、もはやまったく重要でないような地点に到達することだ。

(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ千のプラトー  資本主義と分裂病宇野邦一小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明河出文庫 p15)

 


およそ言語が自己完結するとしたら、無力化をもたらす機能をともなうときだけである。

(p24-25)

 


善と悪とは積極的かつ一時的な選別、何度でもやり直すべき選別の産物でしかありえない。

(p28-29)

 


すべてのものが嘲笑してゐる時、
夜はすでに私の手の中にゐた。

(左川ちか「錆びたナイフ」)

 


体重は私を離れ  忘却の穴の中へつれもどす  ここでは人々は狂つてゐる  悲しむことも話しかけることも意味がない  眼は緑色に染まつてゐる  信じることが不確になり見ることは私をいらだたせる

(左川ちか「緑の焔」)

 


彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。

(左川ちか「死の髯」)

 


現代の偉大な法学者が書いているように、「裁判を受けることなしに刑罰を科されることはない(nulla poena sine judicio)」という原則は、裁判のなかでは、刑罰を科されることのない裁判はないという原則に反転してしまっている。というのも、《すべての刑罰は裁判のなかに存する》からである。だから、唯一の救済策はけっして訴えられないこと、けっして法の領域に巻きこまれないで生きていることだろうが、こんなことが可能とはとてもおもえない。

(ジョルジョ・アガンベン『カルマン  行為と罪過と身振りについて』上村忠男訳 みすず書房 p13)

 


「罪がないところに罰はない」というのは、罰はある行為の結果としてのみ科されうるということを意味している。が、罪のほうはそれを制裁する罰によってのみ罪として存在する。「罰のないところに罪はない」のである。すなわち、制裁は法律にとっての付属品ではない。むしろ、法律は、究極のところ、本質的に制裁のうちに存しているのである。

(p22)

 


しかしながら、法は制裁をつうじて犯罪を生み出すと言っただけでは十分ではない。制裁は不法行為をつくり出すだけでなく、同時に、みずからの条件を規定することによって、なによりもまず、自己自身を当為として主張し産出すると付け加える必要がある。そして、制裁は概して強制行為の形態をとることからして、───ケルゼン自身はこの結論を引き出す気にはなっていないようにみえるとしても───法の本質は合法的な暴力を生産すること、すなわち、暴力を正当化することにあると言うことができるのである。

(p36)

 


罪が​───もし罪ということが語りうるとして───そこから発生する原理は、「悪しき意志」ではなくて、無知である。人間が行為するのは、行為することを欲するからではなく、彼にとってなにが善であるかを知っているからである。そして知っていることは行うこともできるのである。

(p54)

 


《決断を産み出しているのは、いつも最後には、神々によって押しつけられたアナンケー(ananke)=「必然性」である。……悲劇の人間はもはや二つの可能性のうちのどちらかを「選択する」ことができない。彼は自分の前には一つの道だけが開かれているのを「確認する」。彼の関わり方が表現しているのは、主体の自由な選択ではなくて、この宗教的な秩序の必然性の承認である。この必然性から登場人物は逃れることはできないのであって、それは登場人物を「決断」の心臓部そのものにおいて内面的に「強制された(biastheis)」存在にする。だから、もし意志が存在するとしても、それはカント的な意味においての自律的意志ではないだろうし、単純にトマス主義的な意味においての意志ですらないだろう。そうではなくて、神的なものにたいする畏敬に満ちた怖れと結びついた意志、いやそればかりか、人間の内部を充当している聖なる諸力によって強制された意志であるだろう》(Vernant, p. 46)。

(p55)

 

 

 

3/5(火)

通所243日目。

 

 

 

3/6(水)

通所244日目。

 

 

 

3/7(木)

現代日本の文学50  曾野綾子  倉橋由美子  河野多恵子』(学研 1971.4)を買った。

 

 

 

3/8(金)その1

通所245日目。

 

 


3/8(金)その2

J・D・サリンジャー倒錯の森』(鈴木武樹訳 角川文庫 1970.4)

 

S.モーム手紙』(西村孝次訳 角川文庫 1956.2)

 

を買った。

 

 

 

3/9(土)その1

池袋にきた。

 

山尾悠子新編  夢の棲む街』(ステュディオ・パラボリカ 2022.3)

 

佐藤亜紀天使・雲雀』(角川文庫 2020.8)

 

を買った。

 

 

 

3/9(土)その2

稀薄な生命を長くというのと、濃縮した生命を、ごく短くというのと、どちらを選択するかは、患者の自由にゆだねられるべきじゃないか?

(大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』講談社文芸文庫 p90)

 

 

 

3/10(日)

凄まじいストレス。

 

 

 

3/11(月)その1

『昏乱』を読み始めた。

 

 


3/11(月)その2

越境移動の歴史を研究するということは、人々の「流れ」や移動の「波」を論じるというより、人々が人生設計を実現させようとするなかで、自分の能力に応じて社会から与えられる選択肢や制約と折り合いをつけること、つまり主体性を明らかにすることである。

(クリスティアーネ・ハルツィヒ、ディルク・ヘルダー、ダナ・ガバッチア『移民の歴史』大井由紀 ちくま学芸文庫 p15)

 

 

 

3/12(火)

通所246日目。

 

 

 

3/13(水)

通所247日目。

 

 

 

3/14(木)

吉行淳之介菓子祭  夢の車輪』(講談社文芸文庫 1993.12)を買った。

 

 

 

3/15(金)その1

通所248日目。

 

 


3/15(金)その2

堀田善衞ゴヤⅠ  スペイン・光と影』(集英社文庫 2010.11)を買った。

 

 

 

3/16(土)

中村眞一郎』(新潮社 1984.12)を買った。

 

 

 

3/17(日)その1

アルチュール・ランボオイリュミナシオン』(金子光晴訳 角川文庫 1999.1)

 

山藍紫姫子イリス  虹の麗人』(宙出版 2006.2)

 

を買った。

 

 


3/17(日)その2

ダダは一切を抱擁する。何者もダダを恋する事は出来ない。
ダダは一切に拘泥する。一切を逃避しないから。

(高橋新吉ダダイストの睡眠』松田正貴編 共和国 p12)

 


ダダは一切のものを出産し分裂し総合する  ダダの背後には一切が陣取っている。
ダダは聳立する。何者もダダの味方たり得ない。

(p14)

 


私は桔梗の花を見た事もない。それでも私は桔梗の花が好きなのである。私は桔梗の咲いている野原で、何の物音も聞かずに独りで遊びほうけていたい。

(p37)

 


私は虫ケラのように生きていればよかったのである。

(p43)

 


私はいつのまにか、気が狂っているのであった。

(p48)

 

 

 

3/18(月)

・『平戸廉吉詩集』(ほるぷ出版 1981.12)

 

池上英洋川口清香美少年美術史』(ちくま学芸文庫 2016.6)

 

を買った。

 

 

 

3/19(火)

通所249日目。

 

 

 

3/20(水)

感情が鎮まらない

 

 

 

3/21(木)

神保町にきた。春の古本まつり。

 

セシェ・ベルトゥボードレールの生涯』(齋藤磯雄訳 立風書房 1972.7)

 

粟津則雄ランボオボードレール』(第三文明社 1975.9)

 

ポール・ヴェルガンマドモアゼル・リリアーヌ』(藤島義史訳 二見書房 1990.5)

 

中田耕治ブランヴィリエ侯爵夫人』(白順社 2004.6)

 

清岡卓行アカシヤの大連』(講談社 1970.3)

 

を買った。

 

 

 


新宿に寄った。

 

吉行淳之介星と月は天の穴』(講談社文芸文庫 1989.6)を買った。

 

 

 


池袋にも寄った。

 

・『ジャック・レダ詩集  静けさへの帰還』(舷燈社 2007.2)

 

キース・ロバーツパヴァーヌ』(越智道雄ちくま文庫 2012.10)

 

を買った。

 

 

 

3/22(金)その1

種村季弘コレクション  驚異の函』(諏訪哲史ちくま学芸文庫 2024.2)を買った。

 

 


3/22(金)その2

ここで見えている現実は、別の次元のさらに恐ろしい現実という顔が着けている仮面にすぎないのかもしれない。

(アンナ・カヴァン『眠りの館』安野玲訳 分遊社 p53)

 

 

 

3/23(土)

通所250日目。

 

 

 

3/24(日)

力仕事をして疲れた。

 

 

 

3/25(月)

朝から不快な気持ちにさせられた。

 

 

 

3/26(火)その1

通所251日目。

 

 


3/26(火)その2

ですから、「ぼくが一つのかたちを捉えることができる」とき、そのかたちがどれほど不完全なものであっても、ぼくはそれを、思考の一切を失ってしまうことをこそおそれて定着するのです。

(『思考の腐蝕について  アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールとの手紙』飯島耕一思潮社 p10)

 


あなたがとがめたあの詩の言いまわし、まずい表現、それをぼくはまさしく感受したのであり、認めもしたのです。思ってみて下さい。ぼくはあの詩のやってくるのを拒まなかったのです。あれらはぼくの思考の深い不確実性のうちからやってきたものです。その不確実性が、ぼくがそれについてときおり悩む、あの完全な非存在に置き換えられるということがあれば、どんなに不幸なことか。

(p10-11)

 


魂の、根こそぎにすることのできない本質から成ったもの、この現実からの呻き声とも言えるものに、どうして虚構の外見をあたえるのですか?

(p44)

 


ぼくはほんとうに、自分がこの世界に属していないと言うことができます。

(p47)

 


集めるときにのみその価値は壊れるのです。

(p47)

 


人々を判定することをあまりに急いではならないと思います。非条理なまでに、底の底まで人々を信用することが必要です。

(p52)

 


われわれは、心理的な、馴れなれしい姿勢のうちに知らず知らずおりながら、とつぜんその姿勢が自分自身をはみ出すのを、むしろ、自分自身がそうした馴れなれしい姿勢にひそかに似つかわしくないものになっているのを、何度知ったことでしょう!自分自身のもっとも普段の人格が、その人格を養うべき精神的なあるいは「本質的な」根源の欠如によって、われわれの眼に急にわざとらしい、そして噓らしいものにさえ、どれほどたびたび見えてきたことでしょう?

(p57)

 


おのれを断念する者以外には、絶対的な危機はありません。死への嗜好をもつ者にのみ完全な死があるのです。

(p60)

 

 

 

3/27(水)

通所252日目。

 

 

 

3/28(木)

通所253日目。

 

 

 

3/29(金)

大江健三郎人生の親戚』(新潮社 1989.4)

 

山田章博星界物語』(青心社 1983.11)

 

ウィリアム・ギブスンヴァーチャル・ライト』(浅倉久志訳 角川文庫 1999.1)

 

ロジャー・ゼラズニイわが名はコンラッド』(小尾芙佐訳 ハヤカワ文庫SF 1975.12)

 

水原紫苑快樂』(短歌研究社 2022.12)

 

D・バーンズ夜の森  新装版』(野島秀勝訳 国書刊行会 1989.11)

 

を買った。

 

 

 

3/30(土)その1

佐藤春夫厭世家の誕生日  他六篇  改版』(岩波文庫 1940.1)

 

フィツジェラルド夜はやさし  上巻』(谷口陸男訳 角川文庫リバイバルコレクション 1960.9)

 

フィツジェラルド夜はやさし  下巻』(谷口陸男訳 角川文庫リバイバルコレクション 1960.12)

 

マルロー希望(上)』(岩崎力新潮文庫 1971.6)

 

マルロー希望(下)』(岩崎力新潮文庫 1971.6)

 

サミュエル・ベケットマーフィ』(三輪秀彦訳 ハヤカワNV文庫 1972.2)

 

を買った。

 

 


3/30(土)その2

いつも本当の事は
自分のそとがわにある

(清水昶『黒い天使』邑書林 p19「妹が結婚した」)

 


人間という生き物は
どうも虚無に飛ぶことが出来るらしい

(p37「深夜の旅客」)

 


「崇高から滑稽への距離は一歩にすぎない」

(高柳誠『鉱石譜』書肆山田 p16「大陸を疾駆する嵐」)

 


「すべて肉なるものを終わらせる時が
わたしの前に来ている」

(p29「方舟」)

 


自らをなし崩しに壊滅させ
酸化の極致に至らしめることで
初めて到達する至福の崩壊感覚

(p51「置換する快楽」)

 

 

 

3/31(日)その1

お前みたいなナルシストがいるから、世界はいつもこんなに愚かなんだ。絶えず神話を作りだし、絶えず何らかの偶像を作っている。神話や偶像を否定しても、今度は否定する神話に酔い始める。意味に倚りかかってばかりいて、その上なにしろ意味にかかわる自分を信じている。お手上げだよ。呆れて口もきけない。

(李良枝『石の聲  完全版』講談社文芸文庫 p133)

 

 

 

3/31(日)その2

3ヶ月があっという間だった。相変わらず人とほとんど話していない。来月は誰かに会えるだろうか。

 

 

 

約束を口実にして生き延びる私に早く罰を与えて