8/1(火)
通所146日目。
8/2(水)
通所147日目。
8/2(水)
8/3(木)
病院。
8/4(金)
通所148日目。
8/4(金)
神は目を閉じた。誰かに祈ることさえできたなら。
(ロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』藤井光訳 白水社 p33)
懐かしく思って泣いてしまいそうなものなど、一つも思いつかなかった。
(p40)
衝動があって、行動がある。それだけなんだ
(p67)
崇拝の対象になることは排除の最たるものなのかもしれない、などとは思いもよらなかった。
(p147)
僕と話をする数少ない人たちは、何か間違ったことを言うわけにはいかない、とでもいうように、本当に慎重に言葉を選ぶ。正しい言葉なんて存在しないことは、どうやらわかっていない。
(p188-189)
何かが十分に、さも確証ありげに繰り返されれば、それが真実かどうかは重要ではなくなってしまうようだ。それが真実になってしまう。
(p194)
8/5(土)
昨日書いた詩を読み返していた
8/6(日)
何を読む気にもなれず塞ぎ込んでいた
8/7(月)
小間使いの娘は吐息した、〈あたしの血は
みんなけものなの、あの娘は飼猫のように
蹲っていると みんな思っているけど、
あちこちの暗い森の中を歩いていたの……
ああ この血が死んでくれたなら!〉
(イーディス・シットウェル「暗い歌」)
何もかも狂っているわ 揺り籠から墓場まで───
(イーディス・シットウェル「白い梟」)
8/8(火)
通所149日目。
8/9(水)
通所150日目。
8/10(木)
・シュニッツラー『夢小説 闇への逃走 他一篇』(池内紀、武村知子訳 岩波文庫 1990.11)
・吉行淳之介『闇のなかの祝祭』(角川文庫 1964.4)
・山田登世子『娼婦 誘惑のディスクール』(日本文芸社 1991.9)
・森本穫『作家の肖像 宇野浩二・川端康成・阿部知二』(林道舎 2005.1)
を買った。
8/11(金)
通所151日目。
8/12(土)
まるで人間のように
私はからだじゅうに皮膚をまとって今日も一日をやりすごす
むきだしの魂が誰かを傷つけてしまわぬように
(服部誕『そこはまだ第四紀砂岩層』書肆山田 p45)
敵の手に渡すくらいなら、破壊してしまえ。
(ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』浅井晶子訳 白水社 p18)
8/13(日)
いつもうっすらと疲れている。
8/14(月)
川野芽生の新刊を見つけた
8/15(火)
通所152日目。
8/16(水)
通所153日目。
8/17(木)
ベケットとベルンハルトを借りた。
8/18(金)
通所154日目。
8/19(土)
私はまるで他人だった。
(サミュエル・ベケット『モロイ』宇野邦一訳 河出書房新社 p30)
おれには追憶するすべも、追憶するべきものも無かった。
(朱天文『荒人手記』池上貞子訳 国書刊行会 p16)
もっとも美しいときに死ぬのが桜の哲学で、あまりにもかっこよすぎる。
(p25)
おれはすでに日没を見てしまったのに、人々はまだ日の出を期待している。
(p26)
書くことによって、忘却をくいとめる。
(p43)
おれは書くしかない。倦むことなく綿々と書き続けることによって、ひとつずつ傷口をえぐり、罪科に鞭打つ。そして痛みの鎖でもってしっかりと記憶につなぎとめ、どこかに消えてしまわないようにするのだ。
(p44)
8/20(日)
『暗黒のメルヘン』(澁澤龍彥編 河出文庫 1998.7)を買った。
8/21(月)
何を書けばいいのだろう。いまさら何を?
8/22(火)
通所155日目。
8/23(水)
通所156日目。
8/23(水)
黄昏は、ひとが思っているほどには気持ちを軽くはしてくれず、それはむしろ重く、ほとんど耐えがたかった。
(トーマス・ベルンハルト『破滅者』岩下眞好訳 みすず書房 p15)
もはや私は、すべてが不断にしかも不快なかたちで美化されてゆくような世界の中で、社会の中で、美化されるべきものなどなにもないのに、自分じしんに噓をついてなにかを美化しようなどというつもりはないのだ。
(p107-108)
どこに到達するのであれ、到着すれば私は不幸なのだ。私は、基本的にこの世のどこにも我慢ができず出てゆく場所と向かう場所という二つの場所のあいだでだけ幸福な人間の一人である。
(p119)
あれは、ほとんどひっきりなしに、自己憐憫のために死んでいるんだ。
(p197)
外面か内面か、あるいは外面と内面がぼろぼろ。そうでない人はいない、と私は思った。ひとりの人間を長くながめればながめるほど、私たちには、その人間がぼろぼろに見えてくる。私たちが認めようとしている以上にぼろぼろだからそうなるのである。だが、実際はそのとおりなのだ。世界は、ぼろぼろの人間に溢れている。
(p200)
私は、この現実をおしまいにしてしまわなければならない。
(p201)
親たちというものは、自分たちの存在そのものである不幸が子供たちにも引き継がれてゆくことを充分に承知していながら、無慈悲にも子供をつくるという挙に出て、子供たちを実存の機械の中へと投げ込んでゆく、と、そう彼は言っていたっけ、とその旅館の食堂を見わたしながら私は思った。
(p215)
ずっと以前から、あらかじめ計算していた自殺、と私は思った。それはけっして絶望からのとっさの行為ではなかった。
(p226)
8/24(木)
意思がない
8/25(金)
通所157日目。
8/26(土)
苦しい
8/27(日)
嫌い
8/28(月)
『集英社ギャラリー [世界の文学]9 フランスIV』(集英社 1990.7)を買った。
8/29(火)
通所158日目。
8/29(火)
『集英社ギャラリー [世界の文学]19 ラテンアメリカ』(集英社 1990.2)を買った。
しかし、私はしばしば自分が知らぬ間にこんな祈りを捧げていることに気づいた。それは単純に〈彼女はここにいる、まだここにいる〉という祈りだ。
(ジョージ・ソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂たち』上岡伸雄訳 河出書房新社 p10)
8/30(水)
通所159日目。
8/31(木)
思い出は思い出されたくなかった
9/1(金)
通所160日目。
9/1(金)
『集英社ギャラリー [世界の文学]12 ドイツⅢ』(集英社 1989.12)
を買った。
9/2(土)
詩を、書く
9/3(日)
詩を書いた
9/4(月)
アレン・カーズワイル2冊
9/5(火)
通所161日目。
9/5(火)
記憶とはなんて残忍なものだろう!
物語は語られないことによって力強さを獲得していた。
(p55)
過去へ戻る時には、選び出された特定の苦悩へと戻っていくのが彼の常で、それはまるで哀しみそのものよりも、その記憶を失うほうが最悪な哀しみであるかのようだった。
(p55)
9/6(水)
通所162日目。
9/7(木)
ジョン・ダニング『死の蔵書』(宮脇孝雄訳 ハヤカワ・ミステリ文庫 1996.2)を買った。
9/8(金)
そして彼らは、それぞれの物語を繰り出してやまない。あたかも、語ることが、生き残ったことの証でもあるかのように。
(アーノルド・ゼイブル『カフェ・シェヘラザード』菅野賢治訳 共和国 p49)
9/9(土)
ぼくよりも寛容な人間というのは基本的に存在しないだろう。どんな意見にも、それを弁護できる理由がある。ぼく自身があいまいな意見を持っているわけではないけれど、ぼくとまったく対照的な環境で育った人が、対照的な意見を持つようになるってことは理解できるのだ。
(スタンダール、ある記事の草稿より、一八三二年)
9/10(日)
目を逸らす先がない
9/11(月)
また一つ歳を重ねた。
9/11(月)
『集英社ギャラリー [世界の文学]15 ロシアⅢ』(集英社 1990.10)を買った。
9/12(火)
通所163日目。
9/12(火)
書いたものというのはすべて、長い時間ねかせておいて冒頭から何度も繰り返して検討しなおしていると、当然のことながら我慢のならないものに思えてき、それを無しにしてしまうまで落ち着きが得られないものだ、と私は思った。
(トーマス・ベルンハルト『破滅者』岩下眞好訳 みすず書房 p254)
たしかに彼は自分の不幸の中で不幸ではあったが、もし一夜にして自分の不幸を失ってしまうようなことがあったとしたら、もし一瞬のうちに不幸を取り上げられてしまったとしたら、もっと不幸だったことだろう。これはいっぽうで、彼が根本的にはまったく不幸ではなく、むしろ幸せだったことの証明となる。それが彼の不幸によって、また不幸とともに、もたらされたものであるにしてもだ、と私は思った。
(p291)
もしかすると私たちは、いわゆる不幸な人間などまったく存在しないということから出発しなくてはいけないのかもしれない、と私は思った。というのも、私たちは、たいていの場合、他人から彼らの不幸を取り上げることによって、はじめてその人を不幸にするものだからだ。
(p292)
世間というものがいつのまにか、そして思うにまったく自然なことながら一夜にして、自分には完全にどうでもよいものとなってしまっていたのだった。
(p295)
私たちは理論では人間を理解できるが、実際には人間というものが我慢ならない、と私は思った。彼らとたいていは不承不承付き合うだけで、自分のほうから見た見方で対応している。だが私たちは人間を、自分のほうから見た見方で見るべきではなく、あらゆる視角から眺め、対応しなければいけない、と私は思った。つまり彼らと、いわばまったく先入観にとらわれていない仕方で付き合っていると言えるような、そんな仕方で付き合うべきなのだ。だがそんなことはできない。私たちは実際のところ誰に対しても先入観にとらわれてばかりいるからだ。
(p326)
陪審員たちというものは、いつもそのときの気分にしたがって評決を出すというばかりではなく、さらに自分となんら変わらぬ人たちへの抑えがたい憎悪というものをもっていて、自分たちが罪のない人たちに対して取り返しようもない犯罪行為を犯してしまったということが早々にわかっていたとしても、そうした誤った判断と自分じしんとを、あっという間にもうよしとばかりに許してしまうのだ。陪審員たちによるすべての評決の半分が、言わせてもらえば誤った判断に基づいている、と私は思った。
(p328-329)
精神的な生産に従事している人たちは、自分はこれをたいしたこととは思っていないといつも口では言うが、じつは反対にたいへん大切に思っているのであり、ただそれを口に出さないだけなのである。彼らは、そうした彼らの言うところの勝手な思い込みを恥じているからで、少なくとも人前で恥じないですむようにと自分の仕事をこきおろすのだ。
(p349)
私たちはひとつの言葉を口にして、ひとりの人間を滅ぼす。この滅ぼされた人間のほうは、彼を滅ぼす言葉を私たちが発したその瞬間には、その致命的な事態についてさとりはしない、と私は思った。致命的な概念であるそうした致命的な言葉に直面させられたそうした人は、当の言葉とその概念がもつ致命的な作用につゆほども気づかない、と私は思った。
(p351)
9/13(水)
通所164日目。
9/14(木)
『破滅者』を読み終えた。
9/15(金)
通所165日目。
9/15(金)
『集英社ギャラリー [世界の文学]17 アメリカⅡ』(集英社 1989.10)を買った。
9/16(土)
ある晴れた日の朝、ぼくの姿が見つからない、それだけでよいのだ。
それにしてもどこへ行くのか?この世のはずれの、最後の岸にまで、ぼくは来てしまった。もうたくさんだった。そのときからぼくは思いはじめた、またあの山々を越えてゆくだろう、と。
(p32)
9/17(日)
・ポール・オースター『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳 白水Uブックス 1999.7)
・アンドレ・マルロー『征服者(改版)』(小松清訳 新潮文庫 1969.11)
を買った。
9/18(月)
続きが書けない 、でも書く必要があるのか?
9/19(火)
渋谷と池袋に行ってきた。
・L.v.S=マゾッホ『魂を漁る女』(藤川芳朗訳 中公文庫 2005.4)
・ロブ=グリエ『覗くひと』(望月芳郎訳 講談社文芸文庫 1999.3)
・ロブ=グリエ『迷路のなかで』(平岡篤頼訳 講談社文芸文庫 1998.2)
・ピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』(遠藤周作、若林真訳 河出書房新社 1960.5)
・福永武彦『異邦の薫り』(新潮社 1979.4)
を買った。
9/20(水)
通所166日目。
9/21(木)
人と会ってきた
9/22(金)
通所167日目。
9/23(土)
通所168日目。
9/24(日)
・ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』(高野優訳 光文社古典新訳文庫 2018.9)
を買った。
9/25(月)
眼を閉じて愛するのは盲として愛することだ。眼を開いて愛するのは、おそらく狂人として愛することだ。狂おしいまでに受け容れることだ。私は狂女としてあなたを愛する。
(マルグリット・ユルスナール『火 散文詩風短篇集 新装復刊』多田智満子訳 白水社 p61)
私が生きることをのぞみ給う神はあなたにもはや私を愛さぬよう命じ給うた。私は幸福にはよく耐えられない。そんな習慣が欠けているのだ。あなたの腕の中では私は死ぬことしかできなかった。
(p62)
あのお方は私を幸福から救い出したのでした。
(p103)
あなたに逢うと、すべてが澄みきってくる。私は苦しむことを受け容れる。
(p105)
野望はひとつの囮にすぎぬ。叡智はまちがっていた。悪徳それ自体が噓偽だった。美徳もなく、憐憫もなく、愛もなく、羞恥もなく、それらに対立する強力な悪徳もなく、ただ在るものといっては、苦悩でもあるところの歓喜の頂点で踊っている空っぽの貝殻、形象の嵐の中の美の閃光ばかりなのだ。
(p128)
9/26(火)
通所168日目。
9/26(火)
『集英社ギャラリー [世界の文学]5 イギリスIV』(集英社 1990.1)を買った。
僕ら自身の思い出し方によって、かつては現実だと思われていたことがフィクションへと変貌してしまう。
(キルメン・ウリベ『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』金子奈美訳 白水社 p43)
空想は現実に基づいているのだと言われるが、物語の法則は、真実の一面だけを語ることだ。これは必然で、そうでなければ物語は機能しない。
(p48)
その他はすべて、人々の空想だ。
(p48)
きっと答えはノーだろう。でも、僕はそれでもかまわない。本当であろうが噓であろうが、一番大事なのは物語そのものなのだから。
(p66)
「あなたを赦します、それだけを言いに来ました。赦すことが私にとっての復讐です」
(p120)
9/27(水)
通所169日目。
9/28(木)
本を読んでいた。読み終わった
9/29(金)
通所170日目。
9/29(金)
・ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち(新装新版)』(黒田寿郎、奴田原睦明訳 河出書房新社 2009.2)
・『集英社ギャラリー [世界の文学]20 中国・アジア・アフリカ』(集英社 1991.6)
を買った。
9/30(土)
生き延びた
10/1(日)
賀淑芳『アミナ』を読んでいる。
10/2(月)
つまりね、人間ってのは、たいてい自分がある場所で足場を得ると、"それじゃあ、どうする?"って将来のことを考えはじめるもんでしょう。何がいまわしいかって、自分に"それじゃあ"っていう先のことが、からっきし与えられてねえってことがわかったときくらい、無惨なことはねえですよ。気が狂うんじゃないかと思うくらい、うちのめされちまいますよ。そのときその人間の口からは、ほとんど聞きとれぬくらいの声の独り言がもれてくるんですよ。
"これで生きてるっていえるか?これなら、死んだ方がましだ"
それから何日かたつと、その声は大声に変ってわめきはじめるんですよ。
"これでも生きてるっていえるのか?死んだ方がまだましだ"
このわめき声は、旦那さん、感染していくんですよ、そして皆が一斉にわめくんです。
"これで生きてるっていえるか、死んだほうがまだましだ"ってね。
(ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち(新装新版)』黒田寿郎、奴田原睦明訳 河出書房新社 p168)
われわれが人間を問題にする時、血とか肉とか身分証明書とか、パスポートは関係がない。あなたは、それがわかりますか?
(p247)
「私の妻は、われわれが卑怯であったことが、あなたが現在かく在ることへの権利を与えることになるかと尋ねているのです。(後略)
しかし、いつになったらあなた方は、他人の弱さ、他人の過ちを自分の立場を有利にするための口実に使うことをやめるのでしょうか。そのような言葉は言い古され、もうすりきれてしまいました。そのような虚偽でいっぱいの計算ずくの正当化は……。ある時は、われわれの誤りはあなた方の誤りを正当化するとあなた方は言い、ある時は、不正は他の不正では是正されないと言います。あなた方は前者の論理をここでのあなた方の存在を正当化するために使い、後者の論理をあなた方が受けねばならぬ罰を回避するために使っています。私にはあなた方が、この奇妙な論理の遊戯を最大限にもてあそんでいるように見えます。あなた方は新たに、われわれの弱さを駿馬にしたててその背に乗ろうとしている。
(前略)私はあなたがいつかこれらのことを理解してくれることと思いますが、その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることなのです」
(p251-252)
10/3(火)
通所171日目。
10/4(水)
通所172日目。
10/5(木)
通所173日目。
10/5(木)
大島博光『愛と革命の詩人ネルーダ』(国民文庫 1974.6)を買った。
10/6(金)
通所174日目。
10/6(金)
後ろに人がいなければ、列に価値はない。
人の数が少なければ、倫理も薄くなる。
(p79)
私は、どこまでが私なのだろう。
(p90)
記憶には、思い出すと惨めになるタイミングがある。
(p102)
私を必要としない世界を、なぜ私が必要としなければならないのだろう。
(p119)
10/7(土)
ひょっとしたら、我々はたいして人の生を愛してなんかいないんじゃないか?
理想に殉ずる自殺者はね、あなた、忘却されるか、嘲笑されるか、利用されるか、そのどれかです。理解されることなど決してない。
(p97)
何がなんでも真実を求めようとする情熱は、何も許さず何にも逆らわせないただの悪徳であり、時として自己満足、あるいはエゴイズムでしかありません。
(p105)
ねえ、昔知人に聞いたんですがね、人間というのは三種類に分けられるそうです。噓をつくくらいなら何も隠さない方を好む人間、何も隠さないでいるより噓をつく方を好む人間、そして虚偽と秘密を同時に愛する人間。わたしに最も当てはまる系統はどれか、ご判断はあなたにお任せします。
(p148)
しかしご安心を!もう遅すぎるんです、今となっては、そしてこれからもずっと手遅れのままです。幸いなことに!
(p181)
10/7(土)
堀田善衞『スペインの沈黙』(ちくま文庫 1986.9)を買った。
10/8(日)
なにくそ、という言葉が昔から嫌いだった。はじめて聞いた時から嫌いだった。なぜだろうか。憎悪は前進のためのエネルギーに昇華しろ、というようなメッセージに生理的嫌悪があるのだろうか。何はともあれ、それが口癖の人間と関わり合いになりたくはないと思っている。その一人が、まあ、親だったのだけど。
10/9(月)
通所175日目。
10/9(月)
───俺は死んだっていいさ、お前が生きてるもん。
(小川国夫「石の夢」)
10/10(火)
通所176日目。
10/11(水)
通所177日目。
10/11(水)
・ウィリアム・ブレイク『無心の歌、有心の歌 ブレイク詩集』(寿岳文章訳 角川文庫 1999.1)
・ニーチェ『若き人々への言葉』(原田義人訳 角川文庫 1954.12)
・日野啓三『落葉 神の小さな庭で 短篇集』(集英社 2002.5)
を買った。
10/12(木)
開高健『ロマネ・コンティ・一九三五年』(文春文庫 1981.7)を買った。
10/13(金)
通所178日目。
10/14(土)
堀田善衞『バルセローナにて』(集英社文庫 1994.10)を買った。
10/14(土)
私たちは自分がもう死んでいると考えている、すると彼らに出会い、彼らが救ってくれる、しかし私たちは彼らが救ってくれたことに恩を感じず、逆に彼らを呪い、そのことで彼らを憎み、自分を救ってくれたことへの憎しみを一生涯彼らに浴びせつづける。
(トーマス・ベルンハルト『樵る 激情』初見基訳 河出書房新社 p129)
10/15(日)
つまらない詩が読みたい
いつか美しくなるかもしれないから
10/16(月)
燃え狂へ、燃え狂へ、
燃え狂へ、太陽よ!
狂ひつつ、われらを搖すれ、
そのために遂󠄂にわれらが
永遠の靜けさを豫感するまで!
(ハンス・カロッサ「太陽にささげる歌」片山敏彥訳)
氣を張りながらも疲れてゐるお前󠄁の微笑を、
早や秋めいて何となく寂しいお前󠄁の口を忘れてゐた。
私の見る夢さへもお前󠄁を忘れてゐた。
(ハンス・カロッサ「邂逅」片山敏彥訳)
私はひとりぼつちだ。霧が動く風の中に
晝間が點した光の火が消󠄁える。
木の葉が枝から離れて飛びたがつてゐるのが感じられる。
(ハンス・カロッサ「眺望」片山敏彥訳)
──今君は、私にこの日まで意味の知られてゐない言葉を使ふ。
(シャルル・ボードレール「異国人」三好達治訳)
際限というものを一切認めない放埒の精神は、自然や社会の慣習が大事に保護すべきものを、強いて汚穢の泥にまみれさせれば、それだけ奇妙に燃えあがるのであった。
(マルキ・ド・サド『ソドム百二十日』澁澤龍彥訳)
10/17(火)
通所179日目。
10/18(水)
通所180日目。
10/19(木)
想像力の欠けた人間が犯した事件が、われわれの想像力を刺激してしまう。
(ロジェ・グルニエ『書物の宮殿』宮下志朗訳 岩波書店 p20)
待機する愛が、愛の成就よりも大きな喜びをもたらすのだ。
(p34)
自分は待たれていると、それほど自信をもてるのだろうか?愛されざる者の夢にすぎないというのに。
(p38)
死なるものは、待つことが理にかなったこと、あるいは望ましい唯一のことであるのに、われわれはそれを待とうとはしない。
(p41)
宗教の道具のひとつとなったおかげで、おそらくは、待つこと自体が宗教となったのだ。われわれは待つことのために神殿という待合室を捧げたではないか。それは、未知の神ではなしに、無に対して捧げられた奇妙な礼拝の場所である。
(p42)
自殺とは、ひとつの断崖であり、その人はその断崖沿いを歩いている。
(p52)
われわれは同時に、白であり黒であることはできない。しかしながら、白であって、それから黒になることはできる。時間とは驚きであり、否認なのである。自我の時間性が、精神の自由の根拠をなしている。
(p61)
もっともラジカルかつ残酷な矛盾とは、忘却にほかならない。
(p63)
文体の美しさに満足しているような絶望は、いささかも絶望ではない。
(p67)
沈黙は、いかなる発話よりも、いかなる書かれたものよりも、破壊的な力をはらんでいる。
(p67)
10/19(木)
サルトル『悪魔と神』(生島遼一訳 新潮文庫 1971.12)を買った。
10/20(金)
通所181日目。
10/20(金)
その声がわたしに穴をあけにくる数えきれないうつくしい穴
(大森静佳『ヘクタール』文藝春秋 p13)
感情を根絶やしにせよみずうみと砂のまじわるところに触れて
(p34)
わたしには言葉がある、と思わねば踏めない橋が秋にはあった
(p42)
ちからとは甘い苦さとおもうのにねじ伏せられて雲が低いよ
(p53)
横顔というのは生者にしかなくて金木犀のふりかかる場所
(p62)
産めば歌も変わるよと言いしひとびとをわれはゆるさず陶器のごとく
(p78)
生きていて 愛の途中のどこだっておまえが海とおもうなら海
(p105)
死がいちばんつよいなどという考えがわたしを殺すまでの青空
(p126)
祈りたいことと祈るべきこととありどちらも祈ってはならぬこと
(p202)
10/21(土)
通所182日目。
10/21(土)
「じゃあ、きみが話しているとき、話しているのがきみではないといいね。」
(モーリス・ブランショ『待つこと 忘れること』平井照敏訳 思潮社 p14)
なにかをまつことの拒絶という期待。
(p19)
あたかも苦しみが思考を空間としてもっているかのように。
(p23)
あきらかに彼女は、自分のはなしたすべてのことを、自分自身の存在によっては保証しないようにと努めていた。自分のはなしていることの背後に存在しないこと、ことばに生命も熱度もあたえぬこと、自分からとおくはなれたところで、だが、もっとも大きな熱情、すなわち熱度も生命もない熱情をこめてはなしをすること、もしも以上のことが可能なら、そのときこそ、現にいまはなしていたのはまさしく彼女なのだ。
(p35)
「あなたの中にある、無感動で無感覚なものだけで、わたしを愛してくださったら。」
(p38)
期待は、もうまつべきことがなにひとつなくなり、期待の目的さえなくなったときはじまるのだ。期待は自分のまっているものを知らないし、それをこわすものなのだ。期待はなにもまたない。
(p51-52)
死者たちは死にかけているものたちをよみがえらせていた。
(p58)
期待の腐敗、倦怠。よどんでいる期待。はじめは自らを対象とおもい、期待自身にたいする追従、ついには自分自身にたいする憎悪とおもうにいたった期待。期待、期待のしずかな苦悩。思考が期待のなかに現存しているしずかなひろがりとなった期待。
(p60)
きみがどんなにはるかなことまで忘れることができるとしても、忘却の限界をみいだすことはないだろう。
(p70)
「きみがことわるたびごとに、きみはさけられぬものをことわっているのだ。」──「不可能なものを。」──「きみは不可能なものをさけられぬものにしているのだ。」
(p87)
「まだその一刹那はあるのでしょうか。」──「思い出と忘却のあいだにある刹那。」──「みじかい刹那。」──「おわることのない刹那。」──「思い出されもせず、忘れられもせず。」──「わたしたちが忘却によって思いだしている。」
「忘れることのこの喜びはなぜでしょう。」──「忘れられた喜びそのもの。」
(p89)
この苦しみ、このおそれはなにか。この光はなにか。光のなかでの光の忘却。
(p90)
ずっとあとで、かれはおだやかに、用心ぶかく、すでにすっかり忘れ去ってしまっているという可能性にむかいあって、目ざめた。
(p92)
かれらは自分らが死ぬこともできるという考えを、失われたもののようにしていだいていた。そこから、絶望した平静さ、たえきれぬ日が生ずる。
(p100)
「苦しんでいますか。」──「いいえ、苦しんではおりません。ただ、あたしのうしろには、あたしが苦しんでいないという苦しみがあるだけですわ。」
(p166)
10/22(日)
忘れないために書いていたはずが、書けば書くほど忘却に寄与していたのだった。
10/23(月)
罪によってうまれ
憎悪と欺瞞と屈辱によって生活し
暗い夜明けのうちに倒れなければならぬ
(『鮎川信夫全詩集1945-1967』荒地出版社 p22-23)
あなたは愛を持たなかった、
あなたは真理を持たなかった、
あなたは持たざる一切のものを求めて、
持てる一切のものを失った。
(p38)
ながいあいだこの曠野を夢みてきた それは
絶望も希望も住む場所をもたぬところ
(p123)
......開くこともなく錆びてしまった鉄の門
ぼくの記憶は思いがけない不幸のシークェンスで翳ってくる
(p165)
思うことは呪いになる
人はみなちりぢりになる
(p173)
絶望も希望も必要でない
きみが求めているものは善悪でない何ものか
光と影で区分できない何ものかであろう
(p204)
すべて記憶に鍵をあずけている人々よ
鍵は僕が失敬した そしてもう決して返しはしない
(p247)
「また明日会いましょう もしも明日があるのなら」
(p249)
疲れと沈黙の瀑布が
ゆっくりと存在を閉ざす
(p251-252)
失ったものへの愛のほかに
失うものはもうないから
(p271)
他者への絶望が
わずかに自己への希望でしかない日......
(p293)
君を恍惚たらしめた狂氣によつて語れ。
(アンドレ・ブルトン、ポオル・エリュアァル『童貞女受胎』ボン書店 p72)
純粹なものを地獄に墜とせ。純粹さは君のうちに呪はれてある。
(p80)
10/24(火)
通所182日目。
10/24(火)
過去の光景を集めれば集めるほど、と私は話した、過去がそのように起こったのだとは信じられなくなってくる、なぜなら過去はどれひとつとしてまともだと言えるものがない、たいがいが荒唐無𥡴で、荒唐無𥡴でないなら、身も凍りつくことばかりだからだ。
(W・G・ゼーバルト『目眩まし』鈴木仁子訳 白水社 p171)
信仰と信仰でないものという二項の対立からまったくかけ離れたところで、さらにいえば、人間と人間にあらざるもの、人為と自然という対立とも無縁なところで、摩滅という現象そのものについて思考を続けていくことは、はたして可能なのだろうか。
10/25(水)
通所183日目。
10/25(水)
詩人の愛は、無数の、しかももろい根を生やしているんだ。
(J・シュペルヴィエル『日曜日の青年』嶋岡晨訳 思潮社 p117)
10/26(木)
見えぬものは見えないままにそのひとの海の暗さを告げられている
(大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房 p117)
受刑者に人権などは存在しない、刑務所は懲しめの場であり、苦痛を与え、二度と再び犯罪をおかさぬよう威嚇する場である、という明治以来の素朴な応報的差別感情からは、受刑者の人権保障を基調とする現憲法にふさわしい監獄法の全面改正が積極的に発意・支持される余地は全くないからである。
(『監獄と人権』日本弁護士連合会編、日本評論社、1977.9、4頁)
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」(憲一一条)。受刑者にも憲法があり、人権がある。
受刑者は、刑罰として自由を制限される以外の点においては、一般市民と同様でなければならず、これを超えて基本的人権の享受を妨げられることはない。すなわち受刑者も自由刑の執行の目的に矛盾しない限り、一般国民と同様に基本的人権を有していること、そして拘禁中の被疑者・被告人については罪証隠滅・逃亡の防止のために拘禁されているのであって、この目的以外の市民的自由の制約は受けないことが広く国民共通の認識とならなければならない。
このことが監獄の中の人権を考え、監獄法の全面改正を考える出発点であり、前提である。その上で、自由刑の内容として、いかなる拘禁が人に値するものとして許容されるのか、あるいは受刑者の社会復帰のために国・施設はどのような処遇を用意するべきなのかが、再検討されなければならない。
(同上、4頁)
10/27(金)
通所184日目。
10/27(金)
その悲しみには言葉がなく、その後の生に関する意識を欠いていて、そのために慰めようがなかった。
(アンドレイ・プラトーノフ『チェヴェングール』工藤順・石井優貴訳、作品社、2022.6、13頁)
10/28(土)
・『左川ちか詩集』(岩波文庫 2023.9)
を買った。
10/28(土)
何度でも立ち尽くしたいありとある花を欲する花瓶のように
(榊原紘『koro』書肆侃侃房、2023.8、82頁)
10/29(日)
・デカルト『改訳 方法序説』(小場瀬卓三訳 角川文庫 1963.11)
・カミュ『転落・追放と王国』(佐藤朔、窪田啓作訳 新潮文庫 1968.10)
・トマス・ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』(大久保博訳 角川文庫 1970.12)
・『フランス短篇傑作選』(山田稔編訳 岩波文庫 1991.1)
・高橋洋一『ジャン・コクトー 幻視芸術の魔術師』(講談社現代新書1995.10)
・小林標『ラテン語の世界 ローマが残した無限の遺産』(中公新書 2006.2)
・倉橋由美子『パルタイ・紅葉狩り 倉橋由美子短篇小説集』(講談社文芸文庫 2002.11)
を買った。
10/30(月)
いま記憶の痛みをほどけずに
それでも 一度でいいから
生きるのはよした方がいい と言いたまえ
(清田政信『渚に立つ 沖縄・私領域からの衝迫』共和国、2018.8、17頁)
10/31(火)
通所185日目。
10/31(火)
共感したから引用するのではない。日を置いて読み返すとやはり共感できない、なんてことはざらにあるから。共感ではなく、ただ印象に残ったから引用している。印象に残ったからというか、検討するために。何度も、検討するために。