11/1(水)
通所186日目。
11/2(木)
裁かれて無慘の生を全󠄁うせよ それのみに希ひし延命のこと
11/2(木)
E・M・フォースター『インドへの道』(瀬尾裕訳 筑摩書房 1985.8)を買った。
11/3(金)
通所187日目。
11/3(金)
断崖は髑髏の貌(かほ)に赤く焼け眼窩の洞窟(あな)は暗くはてなし
11/4(土)
ぼくの文法のなかには踏み荒らされた泥濘が飢えている。
(崎村久邦『饑餓と毒』思潮社 p28)
11/5(日)
ぎざぎざになればなるほど
おまへは 生きてゐるのだよ
わたしは耐へよう おまへの痛みを うむため
おまへも耐へておくれ わたしの痛さに 免じて
でも 過去のおそれるのは
過去が書き変へられることではないのだ
過去と 現在とが よってたかって
をかしな 未来を
書いてしまふことなのだ
(p147)
11/6(月)
地獄とは、想像の及ばぬ祈りである。
(E.M.シオラン『悪しき造物主』金井裕訳 法政大学出版局 p20)
宗教的感情が生まれるのは、自己の無意味さの確認からではなく、無意味さに対する欲望、そこに溺れ込みたいという欲求からである。
(p20)
古代の人々の考えによれば、人は神々の存在を認めれば認めるほど、いよいよ立派に「神格者」に仕えることになる。神々はこの「神格者」のさまざまな側面、顔にすぎない。神々の数を制限しようとするのは、不敬虔な行為にほかならず、たったひとりの神のために、すべての神々を抹殺することは罪であった。キリスト教徒たちが犯したのは、この罪であった。彼らには、もはやアイロニーは通用しなかった。彼らが伝播させた病いは、勢いを増しすぎていたのである。ユリアヌスが示した激しい辛辣な態度のよって来たるゆえんは、鷹揚な態度をもってしては彼らを扱い得ないところにあった。
(p31-32)
たったひとりの神よりは多くの神々とともにあったときこそ、私たちは間違いなくずっと正常であったのである。もし健康なるものがひとつの基準だとすれば、一神教とはなんたる後退であることか!
(p32)
唯一の神は生を呼吸困難にする。
(p34)
私たちは救われており、そして永遠に不幸なのである。
(p90)
自由であるとは、報いの観念を永久に捨て去ることであり、人間からも神々からも何も期待せず、この世及びあらゆる世界にとどまらず、救済そのものを断念し、しがらみ中のしがらみたる救済という観念をも粉砕することにほかならない。
(p93)
愛することをではなく憎むことを止めたとき、私たちは生きながらの死者であって、もう終りだ。
(p135)
存在しないよりは存在するほうがましだ、ということを証明するいかなる方法もない。
(p142)
苦しんだことのない者との会話は、すべて例外なく下らぬおしゃべりにすぎない。
(p169)
多産な才能に恵まれ、寛大で、つねに製作することに、忙しそうに立ちまわることに満足している人間、理解し難いのはこういう人間たちのことだ。彼らの活力は並はずれたもののようだが、しかしそんなものを妬む気持にはなれない。彼らはどんなものにもなることができる。というのも、実は何ものでもないからだ。つまりは活動的な操り人形、涸れることを知らぬ才能をもった能なし。
(p174-175)
人間はそれぞれ破壊された讃歌である。
(p181)
他の人たちは自分がペテン師であるとは思っていない。だが実際ペテン師だ。私はといえば……私も彼ら同様ペテン師であることに変わりはないが、私はそれを自覚し、それに苦しんでいる。
(p182)
一切の問題は間違った問題にすぎないと知ったとき、危険なほど救済の近くにいるのである。
(p183)
抑圧された祈りは嘲笑となって炸裂する。
(p185)
懐疑主義とは移り気な精神の信仰である。
(p192)
中傷のなかに言葉を、ただ言葉だけを見てとること、これこそ苦しむことなく中傷に耐える唯一の方法である。私たちに向けられるどんな非難の言葉をも、ばらばらに分解してしまおう。ひとつひとつの語を孤立させ、一個の形容詞、一個の名詞、一個の副詞にふさわしい蔑視をもって、その語を扱うことにしよう。
(p192)
人が孤独のなかに逃げ込むのは、誰の面倒をもみないためだ。自分と世界、それで手一杯。
(p198)
おのれを取戻すためには、世間から〈忘れられて〉いるに越したことはない。そうなれば、私たちと重要なものとのあいだに介入してくる者はひとりもいない。他人たちが私たちから遠ざかれば遠ざかるほど、彼らは私たちの完成に手を貸しているのだ。私たちを見捨てることで私たちを救っているのだ。
(p199)
失墜について注釈を加えたい、原罪の寄生虫として生きたい。
(p201)
どんなものに対してであれ意味を探すのは、マゾヒストのすることであって、素直な人間のすることではない。
(p204)
気管の奥まで届いて、そこにたまっている痰をゼイゼイと震わせる咳には、一種独特な快感があるものだ。熱っぽい躰の内部に力ずくで風穴をあけようとしているような、もうひと息で風が通って躰じゅうが爽やかになりそうな、カタルシスの予感がつきまとう。
(古井由吉「影」)
11/7(火)
通所188日目。
11/8(水)
通所189日目。
11/9(木)
結構前から気になっていたコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』が図書館にあったから借りてきた。
11/10(金)
通所190日目。
11/11(土)
・澁澤龍彥『菊灯台 ホラー・ドラコニア少女小説集成』(平凡社 2003.11)
・澁澤龍彥『獏園 ホラー・ドラコニア少女小説集成』(平凡社 2004.5)
を買った。
11/12(日)
人間が自己の本性について問おうとしないとき、人はたとえ生きてはいても、もはや生ける屍同様なのである。
(小原信『孤独と連帯』中公新書 1972.2)
腐敗してゆくものをして静かに、その全体と細部において腐敗しつづけしめよ、人間この腐敗するものの、腐敗の尊厳をおかすなかれ。
(大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』講談社文芸文庫 p25)
11/13(月)
死の変身への
光とも闇ともわかたぬ方向
肉眼には触れることのできぬ
眼を閉じた世界だけに聞える音
(中正敏「すんとり虫」)
11/14(火)
通所191日目。
11/15(水)
通所192日目。
11/15(水)
その夜、夜をしこんだ壺のなかで、喪われてしまつたもの、あれは 何だつたのだろう………
(栗田勇「夜の壺」)
11/16(木)
だが、言いたいことを明確に伝えられないことがあるからといって、とがめられるべきはその道具ではない。
(ルネ・ドーマル『大いなる酒宴』ディスカヴァーebook選書 谷口亜沙子訳)
11/16(木)
・石川淳『天馬賦』(中公文庫 1988.6)
・ジョン・ミルトン『失楽園(下)』(平井正穂訳 岩波文庫 1981.2)
を買った。
11/17(金)
通所193日目。
11/17(金)
〈先生〉と胸に呼ぶ時ただひとり思ふ人ゐて長く会はざる
(菅原百合絵『たましひの薄衣』書肆侃侃房 p22)
11/18(土)
紅葉が出始めてきた。
11/19(日)
『山躁賦』を読みすすめた。
11/20(月)
ディドロ『ダランベールの夢 他四篇』(新村猛訳 岩波文庫 1958.6)を買った。
11/21(火)
通所194日目。
11/22(水)
通所195日目。
11/23(木)
通所196日目。
11/23(木)
第二外国語をやらなければ第一外国語がその分よくできるようになるわけではなく、むしろ逆に第二外国語もやる人の方が第一外国語もよくできるようになるという常識が忘れられつつある。
(多和田葉子『透ける街 溶ける街』日本経済新聞出版社 p121)
11/24(金)
岡田温司『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』(中公新書 2005.1)を買った。
11/25(土)
『文学と悪』(弘学社 2015.6)を買った。
11/25(土)
書物という奴が、これが他の何よりもわたしを疲労の極に追いやる。わたしはただの一語でも、元のままの意味、元のままの形で残してはおかない。
わたしは言葉を捕える。必死に努力して、やっと根っこから引っこ抜く。そして遂には、その著者を取り巻く連中から、言葉を奪い取ってしまう。
ただの一章のなかからでも、即座に幾千もの句が取り出せる。わたしは、それらをすべて作り変えなければならない。そうしないではいられないのだ。
(『アンリ・ミショオ詩集』小海永二訳 ユリイカ p58-59)
11/26(日)
粟津則雄『畏怖についてなど』(思潮社 2012.3)を買った。
11/27(月)
ひかりは わが狂氣 喘ぎに似て、
無限への疲れ果てたる受胎。
(鷲巣繁男「惡胤」)
11/28(火)
通所196日目。
11/28(火)
ペーター・ハントケ『ドン・フアン(本人が語る)』(阿部卓也、宗宮朋子訳 三修社 2011.11)を買った。
11/29(水)
通所197日目。
11/29(水)
そして夜はあらゆる夜のようにしてやってくる。あまりに大きなあの夜がやってくるまでは。
(アンリ・バルビュス『地獄』東西五月社 飯島耕一訳 p8)
11/29(水)
デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』(加藤有子訳 松籟社 2018.12)を買った。
11/30(木)
・シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』(冨原眞弓訳 岩波文庫 2005.3)
・ジョン・ロック『寛容についての手紙』(加藤節、李静和訳 岩波文庫 2018.6)
を買った。
11/30(木)
ニーチェはニヒリズムを、克服されるべきものと考えた。ただ重要なことは、このニヒリズムの克服が、ニヒリズムをその終極まで生きることによって、すなわちニヒリズムの徹底によって、実現されると考えていることである。
(矢島羊吉『ニーチェの哲学 ニヒリズムの論理』福村出版、1986.10、22頁)
12/1(金)
通所198日目。
12/1(金)
・マルキ・ド・サド『ジェローム神父 ホラー・ドラコニア少女小説集成』(澁澤龍彥訳 平凡社 2003.9)
・ポール・ヴァレリー『テスト氏 未完の物語』(粟津則雄訳 現代思潮新社 1967.5)
を買った。
12/2(土)
ダンテ『神曲』(平川祐弘訳 河出書房新社 1992.3)を買った。
12/2(土)
「社会保障が行き渡ると、噓をつくことの経済的な意味がなくなるから、誰も噓をつかなくなるんだよ。」
「何語を勉強する」と決めてから、教科書を使ってその言葉を勉強するのではなく、まわりの人間たちの声に耳をすまして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれが一つの新しい言語になっていくのだ。
(p38)
12/3(日)
その聲は擴つて、まるで波紋のやうにひろがつて、この全󠄁宇宙を包󠄁んでしまふかのように............
(鷲巣繁男「聲」)
12/4(月)
病院にいった。
12/4(月)
詩を書いた。誰にも理解されなくていい。
12/5(火)
通所199日目。
12/6(水)
通所200日目。
12/6(水)
映画の中に閉じ込められてしまった人間ほど惨めな存在はない。
12/7(木)
図書館に。ボラーニョ『2666』があってすぐ借りた。
12/8(金)
通所201日目。
12/9(土)
通所202日目。
12/10(日)
・『世界文学全集65 マルロー 征服者/王道』(集英社 1969.6)
・川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房新社 2021.9)
を買った。
12/11(月)
リンダル・ゴードン『ヴァージニア・ウルフ 作家の一生』(森静子訳 平凡社 1998.3)を買った。
12/12(火)
通所203日目。
12/12(火)
すでに境界線を引いた事柄にも、ずっと境界線を引きつづける必要がある。だがそれは絶望的な行為だ。世界中のすべてが互いに触れ合っているからだ。始まりはけっして消え去ることはない───たとえ終わりが来たとしても。
(ハリー・ムリシュ『襲撃』長山さき訳 河出書房新社 p105)
人はどうすればこれほどまでに虚偽の中で生きられるのだろう?愛がそうさせるのだ。呆れるほどの愛が。
(p124)
記憶は永遠に消え去り、もはや世界のどこにも存在しない。
(p190)
世界は地獄だ、と彼は思った。地獄なのだ。たとえ明日、地上に天国が創られたとしても、過去に起こったすべてのことによって、天国であることはできないだろう。もはや二度と償いはできないのだ。宇宙における人類の営みは失敗したのだ。大いなるしくじり。人類は誕生しない方がよかっただろう。人類がもはや存在せず、あらゆる人のいまわの叫びの記憶もなくなってこそ、ようやく世界は再び秩序を取り戻すだろう。
(p198)
12/13(水)
通所204日目。
12/14(木)
通所205日目。
12/15(金)
通所206日目。
12/15(金)
『立原道造詩集』(中村真一郎編 新潮文庫 1952.5)を買った。
12/16(土)
通所207日目。
12/16(土)
初めての人と会った。新宿の東南口で合流した。久々に来た新宿は少し変わっていた。土曜だからか人がいつにも増して多い気がした。方向音痴で同じ道を行ったり来たりさせてしまった。いつも人を連れていく店で一緒に、一緒のパフェを食べた。久々に食べるパフェは美味しかった。その後、古本を目的に神保町に移動した。地上に出るともう暗かった。古本屋が並んでいる通りを歩いた。初めて入るところもあった。状態が良くて安いのがいくつか手に入って嬉しかった。18時を過ぎたあたりから閉まる店が徐々に出てきて、次はもう少し余裕をもっていこうと思った。ファミレスに入って夕食を摂った。新宿に戻ってホームで見送った。また機会があれば、また、どこかで。
購入品
・ニーチェ『ツァラトストラかく語りき(下) 改版』(竹山道雄訳 新潮文庫 2007.8)
・福永武彦『海市』(新潮文庫 1981.10)
・『上田敏全訳詩集』(山内義雄・矢野峰人編 岩波文庫 1962.12)
・ボードレール『人工楽園』(渡邊一夫訳 角川文庫リバイバルコレクション 1955.5)
・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『大理石』(澁澤龍彥・高橋たか子訳 人文書院 1971.7)
12/17(日)
『エロティシズム』を読み始めた。バタイユの。
デスノスの『エロティシズム』も読みたい。
12/18(月)
『ある島の可能性』を読んでいた。
12/19(火)
通所208日目。
12/20(水)
通所209日目。
12/21(木)
誰からも愛されている空間にぼくのかたちの穴があいてる
(上篠翔『エモーショナルきりん大全』書肆侃侃房 p55)
12/22(金)
通所210日目。
12/22(金)
『キーツ詩集』(出口保夫訳 白凰社 1975.7)を買った。
12/23(土)
外に出なかった。
12/24(日)
・『燠火 マンディアルグ短編集』(生田耕作訳 白水Uブックス 1989.7)
・出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社 1999.9)
を買った。
12/25(月)
通所211日目。
12/25(月)
J-P.サルトル『ユダヤ人』(安堂信也訳 岩波新書 1956.1)を買った。
12/26(火)
通所212日目。
12/27(水)
通所213日目。
12/28(木)
通所214日目。
12/29(金)
・マルティン・ハイデッガー『ニーチェ Ⅰ 美と永遠回帰』(細谷貞雄監訳、杉田泰一・和田稔訳 平凡社ライブラリー 1997.1)
・A.ピエール・ド・マンディアルグ『オートバイ』(生田耕作訳 白水Uブックス 1984.6)
・ヴェルコール『海の沈黙 星への歩み』(河野與一・加藤周一訳 岩波文庫 1973.2)
を買った。
12/30(日)
塚本邦雄を読んでいた。文庫版の全集も値が張る。
12/31(日)
マラルメは一八九○年二月十日にパリを発って、ベルギー各地を講演してまわった。その途中、二月十六日に、ブリュッセルのロワイヤル広場にあるレストラン「グローブ」で、雑誌『若いベルギー』𝐿𝑎 𝐽𝑒𝑢𝑛𝑒 𝐵𝑒𝑙𝑔𝑖𝑞𝑢𝑒を主宰するイヴァン・ジルカン、ヴァレール・ジル、アルベール・ジローの三人と食事をした。このときヴァレール・ジルがマラルメに一冊の本を見せたのである。それは羊皮紙を綴じたものに、マラルメがそれまで発表した詩篇のすべてを丹念に筆写したものであった。ジルは敬愛する師の作品を一篇ずつ雑誌から拾い出しては、自筆詩集を編んだのである。それはまるでユイスマンスの小説『さかしま』の主人公デ・ゼッサントが愛蔵するような美しいものであった。
感激したマラルメは、ぜひパリの友人たちに見せたいからといって借りて帰った。やがて、それがジルの手元に戻ってきたときには、ジルに献じた次のような一節を含む詩句が、マラルメの手で書き加えられていたのである。
わが幻影の美しい紙片は
墓と経帷子をひとつにして
不死にうち震えている
これはただ一人のために広げられる書物。
ジル、あるいはマラルメと同じことがしたい。
今年も惰性で生きてしまった。来年もまた本ばかり読んで、拙い詩を書きまくるのだろう。
気にかけてくれる人、ここまで読んでくれた人、ありがとう。
またいつか。