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灰色の記憶

日記 5/7-5/13

5/7(金)

二者関係における欲求のすべてを諦める?二者関係自体を諦める?


忘れることを諦める?諦めることを忘れる?


見て見ぬ振りを、もう何とも思わない。選ぶということは、選ばなかった方を見捨てるということだ。


両方選ぶか?両方見捨てるか?


謝るくらいなら最初からやるな?おいおい、自分を棚に上げるなって。俺もお前も偽善者だ。


くだらない駆け引き、感傷。馬鹿げた賭け。


直接言えないことの蓄積。それに伴う負の感情の蓄積。


極端な思考しかできない愚かさ、哀しみ。


「自分じゃなくてよかった」、「あなたを解りたい」という相反する感情を抱くことへの嫌悪感。感情というものに対する嫌悪感、絶望。


比較から生じる感情に対する嫌悪感。無意識に比較していることに対する嫌悪感。嫌悪感に対する嫌悪感。自分本位になりきれない絶望。


転換・転換点に対する不安、恐怖、憎悪。


過去を蔑ろにする人々への軽蔑。この軽蔑だけは忘れてはならない。


無知に対する憧憬、軽蔑。この葛藤からは死ぬまで逃れられない。矛盾に引き裂かれ続ける。


責任、誠意、誠実。これらの言葉が放つ悪臭。


過信が生む悲劇。信じることに対する恐怖。


結局、私自身も含めて、誰も自分のことしか考えていない。考えても仕方がないというのに。


復讐は束の間の達成感を生むが、その後は地獄のような虚無感に転ずる。第一、復讐相手が既に死んでいるとすれば、その努力は空虚という他ない。割に合わないどころの騒ぎではない。


対立を煽ってはいけない。双方を吟味すること。折衷できるなら、すること。


自分が持つ観念の微調整。その際限の無さ。


グラデーションにおける中間。この位置でしか、両端を同じ視力で捉えることはできない。


方法的懐疑。弁証法。あと何が必要だ?


あらゆる人が私でないのが羨ましい。それは、不可能なことのなかでいつも最大のもののように思われ、それが最大の原因となって、私の毎日の苦悩、あらゆる時間が悲しいという私の絶望が生まれた。
​───フェルナンド・ペソア

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芥川龍之介『沼』。辛くなったら読み返そう。


勿論僕は死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。

(芥川龍之介『遺書』)

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途方もない。やりきれなさだけが肥大する。視覚も聴覚も厭わしい。助けを求める、誰に?助けてもらった、その先は?わからない。全部がわからない。狂い続けて、死ぬのか。

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自分という病は、少なくとも私の場合は、部分寛解はしても、完全寛解することはない。


私は、私という監獄の囚人だから。ここから出られることはない。ここから出られたとしても、人間社会から完全に逃れる術はない。生まれながらにして八方塞がりだ。


本能だけの生物に生まれたかった。単純で美しいから。


善人、悪人などいない。善行と悪行があるだけだ。人間には善と悪が同在している。

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私達は物事をあるがままに見ない。私達に都合のいいようにしか見ないのだ。
​───アナイス・ニン

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忘れない。忘れないという意思を忘れない。


優しさなんてないよ。心があるだけだ。



5/8(土)

マンディアルグ『薔薇の葬儀』読了。『城の中のイギリス人』よりはライトだった。


図書館に。未読のアンナ・カヴァンを一冊。


澁澤龍彥『快楽主義の哲学』読了。なかなかの良書だった。そういえば、今朝、今日が澁澤の誕生日であることを知った。


理解・被理解に対する執着からの脱却。不理解に対する諦め。


維持と停滞を見紛わないよう注意すること。


努力には二種類ある。一つは漸近、もう一つは維持。特に後者に対する絶望。努力には際限がないことを思い知らされる。到達に対する恐怖、焦燥。絶えずこの矛盾に晒されている。


しなくてもいい努力というのは、基本的にはない。だが、しなくてもよかった努力というのは、少なくとも私には、数え切れないほどある。努力には時に後悔を生むという欠陥がある。この欠陥を私は容認することができない。


本能に基づく努力と、理性に基づく努力。私を煩わすのは、くどいようだが、後者だ。理性はよく本能を断罪しているが、私に言わせれば、理性だって本能にとっては障害になっている。


退化欲求があるというのは、何も恥ずべきことではない。進化を無条件に賞賛する態度と風潮に疑問の目を向けねばならない。不本意な変化を歓迎しろと言われても、それは無理な話だ。



5/9(日)

興味は必ずしも好意であるとは限らない。好意は何から成る?興味、共感、あと何から?共感…いや、共感性羞恥という言葉があるように、共感が必ずしも好意と直結するとは限らない。


偽物の安心を、どう処理したらいい?

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個性を探すとは唯一性を探すことだ。孤独に耐えられないならそんなものを探す必要はない。わざわざ不安になりにいくようなものだ。


わざわざ精神を危険や不安に晒さないと気付けないこと、わからないことがある。それに価値があるのかはともかくとして、そういう現実がある。それを実践する人は凄く切実だと思う。


理解なんてない。理解したいという姿勢があるだけだ。その姿勢を決して冷笑しないこと。



5/10(月)

私を人として好きな人はいるんだろうか。私は自分のことが全然好きじゃない。死ぬまで好きになれないかもしれない。それでも許してくれるだろうか。それで自分を許せるだろうか。


「覚えていてくれてありがとう。記憶の中の私と今相手にしている私は、重なっているかな。重なっていてもいなくても、また話せるかな」



5/11(火)

他人の日記だけ読みたい。

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もしも願い一つだけ叶うなら
君の側で眠らせて
どんな場所でもいいよ

宇多田ヒカル/ Beautiful World



5/12(水)

アンナ・カヴァン『あなたは誰?』読了。心理描写のことごとくが自分を指しているようで、読んでいてあまりに辛かった。


ときに娘は現在置かれている状況の不確かさに落ち着かなくなり、自分の新しい幸せが不意に消えてしまうかもしれないと不安になる。しかしそのことを認めたり、それについて考えたりしようとはしない。とはいえその気持ちは、ふたりのあいだではすべてのことを、ずっとそうであったようにまったく同じにしておきたいという彼女の迷信的な望みのなかに表れる​──どのような変化が忍びこんでくることにも、彼女は耐えられない。(本文より抜粋)


しぬつもりで
しぬならば
幸福とよべるかもしれないが
しぬつもりで
いきていない
お前の息は
正しいか

(三角みづ紀『水曜日、万有と』より抜粋)


私を棄てて去ってゆく者は、
昨日というその日であり、引き留めることができない。
私の心を乱しつづける者は、
今日というこの日であり、憂いは尽きることがない。

(李白『宣州の謝朓の楼にて 校書叔雲に餞別す』より抜粋)


自ら生きるために罪を犯し
誰かを生かすために道を誤る

(植松晃一『罪人ジャン・バルジャン』より抜粋)


すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

(原民喜『悲歌』より抜粋)


悲しいまでに遠くを見てうるんだ眼をお前は人からひた隠してゐた

(立原道造『驢馬の歌』より抜粋)


痛みの終わりが、
ここから見える大好きな景色の終わりなら、
私はずっと傷ついていい。

(矢口蓮人『リング』より抜粋)


苦痛のどん底に落ちた人は叫ぶ。​──俺を救い得るものはただ苦痛のみである。苦痛の盃を最後の一滴まで飲み干すことである。

(種田山頭火『生の断片』より抜粋)


明日の私へ。あなたは断片に過ぎないかもしれない。けれど、その断片が誰かにとってのすべてになるかもしれない。それは明日の私かもしれない。だから、どうか、書くことをやめないでください。



5/13(木)

薬が切れたので病院に来た。


終日雨で寒いというのに、扇風機が稼働していた。青空文庫萩原朔太郎の詩を読んでいた。


ストラテラをやめ、トリンテリックスという薬を処方された。頓服のルネスタも貰った。


帰りしな駅に。中古で『ライ麦畑でつかまえて』を購入。でも先に『フラニーとゾーイー』を読もうと思う。訳者はどちらも野崎孝


詩を書いた。2つ。


『澁澤龍彥玉手匣(エクラン)』読了。澁澤が紹介しているものは全部読みたくなる。きっと紹介のしかたが巧いのだろう。


いま気になっているのは福永武彦深沢七郎


ジッドをもっと読みたい。『田園交響楽』もよかったが、個人的には『パリュウド』が逸品だと思う。


もともと、紙の本を手にする前は青空文庫を読み漁っていた。太宰や芥川は言わずもがな、まったく知らない詩人の詩なんかも分け隔てなく読んでいる。


と、まあこんなことをつらつらと書いていてもしかたがないので、また新しい本を開くとする。世界は広いので、日本の小説だけを読むのは勿体ないです。


それでは今週はこの辺で。死にたくなったら詩を書きましょう。