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灰色の記憶

日記 1/22-1/28

1/22(土) その1

ある特定の人物に対して、ある特定の感情しか抱かないというのは、気味が悪いというか、悲劇的に思います。


まず何でもいいから書くこと。正すことは後から出来るから。書くこと。書くこと。書くこと。



1/22(土) その2

ジャン・コクトーポトマック』(訳:澁澤龍彥 河出文庫 2000.2)を買った。


『大胯びらき』も、また読みたい。



1/23(日)

想像の中でもうこの上もない快感をあじわい、非常に微妙な感覚や感情も経験しつくしたんだから、僕らは改めて現実にそれらを体験し直すのはやめにすべきだよ。

(ダヌンツィオ『死の勝利(上)』野上素一 岩波文庫 1991.3)


想像すれば、私には見える。わざわざ旅などして、それ以上なにをするというのか。感じるために移動しなければならないのは、想像力が極度に脆弱な人間だけだろう。

​​───フェルナンド・ペソア



1/24(月)

病院にいった。ずっと唸っている人がいた。



1/25(火) その1

変な夢を見て、変な時間に起きた。


歯医者にいった。初めて麻酔をした。麻酔している間、謎の音楽が流れていた。


神経を殺す薬(失活剤)というものも使われた。自分の中で死が発生していることを思った。



1/25(火) その2

いらだち、そうじゃない。喪(鬱状態)とは、病気とはかなり違うものなのだ。わたしが何から癒えることを彼らは望んでいるのだろうか。どういう状態に、どういう生活になることを?喪の作業があるとしても、生みだされるのは、特徴のない存在ではなく、精神的な存在であり、価値の──同化ではなく──主体であるというのに。


ときおり、ごく短いあいだ、空白の──無感覚のような──一瞬がある。ふとぼんやりする、というのではない。それが恐ろしい。


わたしが「ぼんやりと」して(話したり、必要があれば冗談を言ったりして)​──そして冷淡であるかのようにして​──いると、そのあと急に、涙の出るほどたえがたい感情があらわれる。
意味の決定不可能性。わたしは無感情なのでもなければ、外にあらわれる女性的な(「表面的な」)──「ほんとうの」苦悩という深刻なイメージとは反対の──涙もろさをつい見せてしまうのでもないと言うことができる。──ふかく絶望しつつも、本心を隠して自分のまわりを暗くさせないために闘っているのだが、ときおり、そうできなくなって「ぽきりと折れて」しまうのである。


喪は、直接的に孤独や経験などのなかにあるのではない。喪にあっても、わたしにはくつろぎや自制のようなものがあるので、ほかの人たちは、思ったほどはわたしは苦しんでいないのだと考えるにちがいない。喪とは、愛の関係や「わたしたちが愛し合っていたこと」がさらに引き裂かれるときなのだ。もっとも抽象的なものにおける、もっとも焼きつく痛みをあたえるもの・・・・・・。


​──だんだんとものを書かなくなり、話さなくなる。あのことしか(だがそれを誰にも言うことができない)。


不在ということの抽象的な性質に衝撃をうけている。とはいえ、焼きつく痛みや激しい苦しみをあたえるものなのだ。そのことから、抽象概念をよりよく理解するようになった。抽象概念とは、不在と苦悩、不在の苦悩である。──したがって、おそらくは愛なのではないか?


困惑し、ほとんど罪悪感さえかんじる。なぜなら、わたしの喪とは、結局は感じやすさに帰着するようにときおり思うからである。
だが、今までの人生で、わたしはそれだけだったのではないか。感じた、ということだけだったのでは?


孤独。これこれの時間に帰ってくるよと言える相手や、ほら、もう帰ったよと電話できる(言える)相手がだれもいないこと。


死が事件であり、予期せぬできごとであり、それゆえに人を集めて、興味をひき、緊張させ、感情をかきたてて、茫然とさせる、という時期がある。そして、ある日のこと、もはや事件ではなくなる。縮まって、取るに足りないことになり、語られなくなる。陰鬱で、手だてのない、べつの持続になる。いかなる語りの論法もありえない、ほんとうの喪になる。


​──胸がはりさけそうになったり、いたたまれなくなったりして、
ときおり、生がこみあげてくる

(ロラン・バルト『喪の日記』石川美子 みすず書房 2009.12)


なぜいったい、私たちは愛しながらいつも悲しいのだろう

(ダヌンツィオ『死の勝利(上)』野上素一 岩波文庫 1991.3)



1/26(水) その1

チャック・パラニュークファイト・クラブ 新版』(訳:池田真紀子 ハヤカワ文庫NV 2015.4)を買った。



1/26(水) その2

僕が君を愛するなら、君は長いあいだ苦しんでいてもいいと言うのは真実かい。きっと、たしかに、はっきりとうけあえるかい

(ダヌンツィオ『死の勝利(上)』野上素一 岩波文庫 1991.3)



1/26(水) その3

生きているひと、生命あるものを拠り所にすることへの嫌悪感、抵抗感、罪悪感



1/27(木) その1

・フリオ・コルタサル『すべての火は火』(訳:木村榮一 水声社 1993.6)

・ブラウリオ・アレナス『パースの城』(訳:平田渡 国書刊行会 1990.9)

・バルべー・ドールヴィイ悪魔のような女たち』(訳:中条省平 ちくま文庫 2005.3)

倉橋由美子『蛇・愛の陰画』(講談社文芸文庫 2009.8)

金井美恵子『砂の粒/孤独な場所で』(講談社文芸文庫 2014.10)

を借りた。



1/27(木) その2

それが真実であるとないとにかかわらず、一瞬間でもあなたがその思いを抱いたという事実、それさえ知っていれば、あとは何も。



1/27(木) その3

心の損得を考える余裕のある
自分が嫌になります


嘘じゃないことなど
一つでも有ればそれで充分
どの私が本当のオリジナル?
思い出させてよ


知れば知るほど遠のく
真実を追いかける最中に
私が私を欺く

(宇多田ヒカル/ 君に夢中)



1/28(金) その1

言葉にすることの億劫さ。なぜイメージだけですべて完結しないのだろう。



1/28(金) その2

チャック・パラニューク『サバイバー 新版』(訳:池田真紀子 ハヤカワ文庫NV 2022.1)を買った。



1/29(金) その3

一切は最後のものであり、ただ瞬間だけが、各瞬間だけが存在し、生命の樹とは、存在の現実態への可逆的永遠の湧出である


生は、私たちの感動が持続するだけ持続する。感動がなければ、生は生の残骸である。


君はじっと待っている。君は覚悟している。だが自分をどうするというのか。かくも多くの語られざるものに囲まれて、何を考えるというのか。
沈黙をよぎるのはだれか。あるいは何か。それは君を、君の外をよぎってゆく君の悪であり、君の否定的神秘の遍在だ。
君の未来を考える?君の悔恨に未来はない。そして君にはどんな未来もない。君の場所は、もう時間のなかにはない。そして時間は、不安をもたらす。
そこで君は立ち去ってゆく。立ち去りながら、君は自分を忘れる。そして歩みつつ、君は他者だ──存在しながら、もう存在しないのだ。


私たちの生きている瞬間、この瞬間だけが崇高であり、無限であり、取り返しのつかぬものなのだ。


私自身はどこにも存在しない。死によって、私はいたるところに存在する。死は私を糧とし、私は死を糧とする。私は死にたいと思わずに一度でも生きたいと思ったことはない。生あるいは死、私はどちらに熱中しているのか。


私は、何であれ何かを憎まずに愛した覚えはないが、それというのも、私の魂のありとあらゆる情熱をもってしても、消滅の法則から何ものをも免かしむることはできなかったからだ。あらゆるものが存在して欲しい、それが私の願いだった。ところが、あらゆるものは私の儚い熱狂のなかにしか存在しなかった。私は世界を捉えることができなかったが、それというのも、世界は存在していなかったからだ。


なぜ心は世界を救うことができないのか。なぜ事物を芳しい不易のなかに配置しないのか。
カルパチア山脈のとある麓で、ひとりの友人が言った次の言葉を想い出す。「君が不幸なのは、生が永遠ではないからだ。」

(シオラン『敗者の祈禱書』金井裕 法政大学出版局 1996.3)