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灰色の記憶

日記 3/26-4/1

3/26(土)

(午前)

雨が降ったり歇んだりしている、外に出たらもう桜が咲いている場所もあった、雨の中の桜も悪くないなと思う


(午後)

何もしていない、雨が降っているなと思う、エリアーデの小説が読みたいなと思う、ウエルベックある島の可能性』が気になっている




3/27(日)

(午前)

霽れている、数日前は蕾だったのがもう咲いている、次々と咲いていく。


また本を売った。これで要らないのは売り尽くしたと思う。月末はジュンク堂で一冊買うことにしているのだが中々決まらない。高見順『敗戦日記』(中公文庫 2005.7)を立ち読みしていたら「私は妻には親切にする。妻が大嫌いだから」といったような箇所があり、唸る。この因果が解せないようでは何も解すことは出来ない。


(午後)

忘れるわけではない、
だが、無気力な何かがあなたのなかに住みつくのだ。



わたしは彼女のようではなかった。なぜなら彼女といっしょに(同時に)死ななかったからである。



わたしは不幸であった場所を離れたが、そこを離れても幸せにはならなかった。



夢は、完全で、すばらしい思い出だ。



自殺
死んだら、もう苦しまなくなる、なんて、どうしてわかるのか?

(ロラン・バルト『喪の日記』石川美子 みすず書房 2009.12)



頑丈なものにうんざりする


弁明することにうんざりする


「◯◯は△△だ」というテーマで書きたいし、「◯◯は△△ではない」というテーマでも書きたいと思う、翻弄したいわけでも中立の立場をとりたいわけでもなく、有り得るすべての可能性を提示したいと思う


作品は作品として独立するべきだし、作品が作者を語り切ることはない(然し本当に?)



内的生活の変化、変遷。こうした日記に収まりきらない事柄、表し難い何か、澱、内面性




3/28(月)

詩を書いた




3/29(火)

梅崎春生『ボロ屋の春秋』(講談社文芸文庫 2000.1)、『ポオ小説全集1』(創元推理文庫 1974.6)を買った。


ミシェル・ウエルベックある島の可能性』(訳:中村佳子 角川書店 2007.2)

ウンベルト・エーコ薔薇の名前(上)』(訳:河島英昭 東京創元社 1990.1)

・『エリアーデ幻想小説全集 第3巻 1974-1982』(編訳:住谷春也 作品社 2005.2)(「19本の薔薇」が読みたいから)

を借りた。




3/30(水)

栃木の太平山という場所に行った。桜を見に行ったのだ。もう見飽きたと思うほど見た。見飽きたとて好きなことには変わりないが。




3/30(水)

「でも、人間の記憶って、へんなもんだな。線としてはつながっていない。ところどころがぽつりぽつりと残っているんだな。強烈なとこだけが残って、あとは消え失せてしまうんだ」

(梅崎春生「狂い凧」)




3/31(木)

清岡卓行が気になっている。




4/1(金)

(午前)

雨上がりの外気は冷たい。雨のせいで桜がいくらか散ってしまったようだ。葉が見え隠れしているのもある。葉桜。葉桜と魔笛と思い出す。


古井由吉「除夜」(『蜩の声』に収録)を読んだ。かなり良い。

日記 3/19-3/25

3/19(土)

どうも調子が悪い




3/20(日)

古井由吉『木犀の日 古井由吉自選短篇集』(講談社文芸文庫 1998.2)を買った。


周囲の人間を物狂わしい言行で悩ますのを避けるためなら、こうして蒼白くにこやかに生きるのが人間的な分別というものだ。にもかかわらず、このようにおのれを守って生きているということが、私には淫らなことに思えてならなかった。このような大人しい分別に従って、彼はかえって自分をいつまでも物狂わしいままに保っているのではないだろうか・・・・・・。

(古井由吉「先導獣の話」)




3/21(月)

長野まゆみ長野まゆみの偏愛耽美作品集』(中公文庫 2022.2)を買った。


小説を書いていた。




3/22(火)

真の善は人を選ばない、また、真の悪も人を選ばない。




3/22(火)

神西清「恢復期」を読んだ。いや良い。何度でも読み返したい。




3/23(水)

部屋にある本を整理していた。要らない本が沢山出てきた。




3/24(木)

本を売ってきた(後日また行くが)。

ランボオ詩集』(訳:小林秀雄 創元ライブラリ 1998.5)を買った。




3/24(木)

・ガルシア=マルケス百年の孤独』(訳:鼓直 新潮社 2006.12)

ミルチャ・エリアーデポルトガル日記 1941-1945』(訳:奥山倫明、木下登、宮下克子 作品社 2014.1)

を借りた。




3/25(金)

寒い、あと風が強い、昼間は汗を掻くくらい暑いが夜は冷えるね、困ったもんだ。また本を売ってきた、昨日と合わせて70冊は売ったはずだが、まだ要らない本があるからまた行かなきゃならない、面倒だ、今これを駅前のベンチに腰掛け、罐コーラを飲みながら書いている、寒いのになぜそんなものを飲んでいるって、喉が乾いていたんだよ、俺は炭酸飲料を毎日飲んでいるから遅かれ早かれどこかが悪くなるかもしれないし、もうなっているかもしれない、とりとめのないことを考えている、吉村萬壱『臣女』(徳間文庫 2016.9)を買った、吉村萬壱は前々から読みたいと思っていた、ジュンク堂に行った、安部公房『密会』が気になっている、不条理文学に飢えている、罐の残りが半分を切った、最後苦しくなると判っていてもいつも500のやつを選んでしまう、自販機で小さいやつも大きいやつも100円だから大きい方を選んでしまう、現に今苦しくなりつつある、それにしても日が延びたな、桜の蕾を見かけたがそろそろ咲くのだろうか、考えながら書くより書きながら考える方が性に合っているなと思う、今読んでいる小説の文体がそんな感じで早速影響を受けているのか、俺は影響を受けやすい、コーラを飲み終わった、寒い、俺は冷え症なんだ、もうじき頭痛に見舞われるだろう、街灯がつきはじめた、寒い、そろそろ帰ろうか。

日記 3/12-3/18

3/12(土)

元気がない


自分を何かに譬えることがそれに対する冒涜のように思える





3/12(土)

「おれにとっては救いか、しからずんば死が必要なのだ・・・・・・」
「おそらく、お前はそのどちらにもぶつかるだろう」

(マルキ・ド・サドロドリゴあるいは呪縛の塔」)





3/13(日)

坂東眞砂子『恍惚』(角川文庫 2011.11)を買った。





3/14(月)

永井荷風『地獄の花』(岩波文庫 1993.9)

・セーレン・キェルケゴールキェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ』(訳:鈴木祐丞 講談社 2016.4)

・カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』(訳:本田誠水声社 2016.5)

を借りた。





3/15(火)

理性は本当に本能の抑止力だろうか?理性を以て悪事を為すことは絶対にないと言い切れるだろうか?





3/15(火)

定りなき毀譽の巷に立つて傷き易い名の爲めに苦しい戰に疲らされるよりは、却つて社會の外に押退けられた穩かな世界に在る人は、冷靜に考れば寧ろ至上の幸福に浴して居ると云はれるかも知れぬ・・・・・・

(永井荷風『地獄の花』岩波文庫 1993.9)





3/15(火)

何者にもなりたくないと言いながら人一倍虚栄心が強いあなたが愛おしい





3/15(火)

​──詩人は気取るもんさ。我に詩を与えよ。然らずんば死を、かね。

(小沼丹「紅い花」)





3/16(水)

石川淳『鷹』(講談社文芸文庫 2012.4)

・岡田睦『明日なき身』(講談社文芸文庫 2017.3)

上林暁『聖ヨハネ病院にて・大懺悔』(講談社文芸文庫 2010.11)

佐伯一麦『ノルゲ』(講談社文芸文庫 2015.10)

島尾敏雄『夢屑』(講談社文芸文庫 2010.9)

中上健次水の女』(講談社文芸文庫 2010.7)

古井由吉『聖耳』(講談社文芸文庫 2013.6)

福永武彦『死の島(上)』(講談社文芸文庫 2013.2)

福永武彦『死の島(下)』(講談社文芸文庫 2013.3)

福永武彦『幼年・その他』(講談社文芸文庫 2014.1)

吉田知子『お供え』(講談社文芸文庫 2015.4)

を借りた。





3/17(木)

喪(悲しみ)を消し去ろうとするのではなく(時間によって消滅するというのは愚かな考えだから)、変えること、変換すること。停滞した状態(鬱滞、閉塞、おなじものの反復)から、流れる状態に移行させること。



涙がでてくる。
自殺したいという思いさえなくなる。



内面化した喪では、徴候はほとんどみえない。
それが、絶対的な内面性の実現である。とこが、あらゆる賢明な社会は、喪を外面化することを規定し、体系化したのだった。
わたしたちの社会の居心地の悪さは、喪を否認していることにある。




起こってしまったことへの恐怖というのは、なんと真実であることか。だがさらに不思議なのは、ふたたび起こりえないことなのに、という点である。そして、それこそが決定的なことの定義なのである。



悲しみを、病気や「憑依」──疎外(自分を未知の人にしてしまうもの)──であるかのように──鬱状態だからという口実で──麻薬でまぎらわせることはできない──ふさわしくない──。それは、まさしく本質的で内面的な善なのだから・・・・・・。



「無垢」とは、けっして何かを傷つけたりしない。



彼女は、愛するひとをぜったいに苦しめることはなかった。それが、彼女の本質の定義であり、彼女の「無垢さ」であった。



わたしは悲しみに生きており、それがわたしを幸せな気分にする。

悲しみに生きることを妨げるものすべてに耐えられない。



悲しみに生きること以外はなにも望んでいない。



わたしの悲しみは説明できないが、それでも語ることはできる。「たえがたい」という言葉を言語がわたしに提供してくれるという事実そのものが、ただちにいくぶんかの耐性をもたらすのである。



どうして、すこしでも後世に残ることや、わずかでも航跡をつけることを望んだりするだろう?わたしがもっとも愛し、今もなお愛しているひとたちは、そういうものを残さないというのに、わたしや、何人かの過去の生き残りたちがなぜそう望むだろう?わたし自身の生をこえて、歴史を偽る冷たい見知らぬ人のなかに残ったとして、何になるというのだ。

(ロラン・バルト『喪の日記』石川美子 みすず書房 2009.12)





3/17(木)

(個人的な)習慣、パターン、秩序。私を苛むと同時に、安寧を齎しもするもの。





3/18(金)

欺かれることは快かった。わたしはその瞬間にすっかり会得した、占領され、捉えられ、自分の意志ではないものの意志に従うのが如何に心地よく、最早抵抗する必要がないと知ることが如何に愉しいかを。

(福永武彦『死の島(上)』講談社文芸文庫 2013.2)



私は創作しているときにだけよい状態でいられる。創作しているとき、私は、人生の不快なことのすべてや、あらゆる苦しみを忘れるのだし、自分の思考に安らぎ、幸福である。ほんの数日だけでも創作を控えてしまえば、私は、すぐに弱々しくなり、困惑し、押しつぶされてしまい、頭は鈍く働かなくなってしまう。創作したいという衝動は、じつに豊かで汲みつくされることがなく、五、六年ものあいだ止むことなく存在し続けてきたあと、今でもまだ同じように豊かに湧き出し続けているのであって、このような衝動は、やはり、神の思し召しなのだろうと思う。万一にも、なお私の心のうちに湧き出し続けている思考の泉のすべてが涸れ果ててしまうようなことがあれば、それはこの上ない苦しみであり、苦難である。私は完全に無能となってしまうだろう。ではなぜそれが涸れ果ててしまうなどと言うのか?なぜなら、私は、自分にはまったくふさわしくないと自分でも理解しているようなことへと、懺悔の気持ちから、自分自身を無理強いすることによって、自分のことを苦しめようという考えをもっているからである。

(セーレン・キェルケゴールキェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ』鈴木祐丞 講談社 2016.4)



マーシャ:それでも意味は?
トゥーゼンバッハ:意味・・・・・・ほら雪がふつてゐます。どんな意味があります?

(チェーホフ『三人姉妹』湯浅芳子訳)

日記 3/5-3/11

3/5(土)


詩を書いた




3/6(日)


教養の低い階層出身者には近代芸術は無縁であるというのが一般の定説であるが、これはどうやら誤りである。まったくその正反対である。たとえなにが描かれているか見当がつかなくとも、そこにあるさまざまの形体の戯れや色彩の調和そのものに喜びを覚えるのは、かえってこれらのひとたちに多い。



最良の人間とはつねに人生を最も単純な姿でのみみているひとびとであり、なみなみならぬ人生の難関にさしかかっても少しもそれと知らずに通り過ぎてしまうひとたちである。このひとたちの心情にはいかなる悪もつけ入る余地がない。



そもそも本物の絵とは何だろう?本物の絵とは即ち、ひとりあるいは数人の専門家によって本物なりと折り紙をつけられた絵にほかならぬ。



「いちばん仕合せというのは生れない連中のことさ」



「良心を、目的そのものと考えてはいけないと思いますね」



名前などはひとに知られないほど良いのです。

(ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』小島衛 白水Uブックス 2021.9)




3/7(月)


皆川博子『結ぶ』(創元推理文庫 2013.11)

山藍紫姫子『花夜叉』(角川文庫 2004.1)

・武者小路實篤『幸福者』(岩波文庫 2006.12)

・レッシング『賢者ナータン』(訳:大庭米治郞 岩波文庫 2006.12)

チェーホフ櫻の園』(訳:米川正夫 岩波文庫 2006.12)

チェーホフ『伯父ワーニャ』(訳:米川正夫 岩波文庫 2006.12)

を買った。




3/7(月)


不幸とは、すぐれて詩的状態である。

(シオラン『思想の黄昏』金井裕 紀伊國屋書店 1993.8)



キリスト教信者たちが考えるように、神が人間を創造したのだとしたら・・・・・・もしかしたら神は女がマゾヒストにならざるを得ないように、そして、男がサディストにならざるを得ないように、わたしたちの肉体を設計したのではないか​──。
わたしは本気でそう思っている。
どの民族でも、男はたいてい女より体が大きい。そして、どの民族でも、男はたいてい女より力が強い。
その理由のひとつは、男という性が狩猟などの危険な仕事に従事し、家族や部族を守るために敵と戦うためだろう。
けれど、それ以上に、男が女より大きくて強い理由──それは、性交を拒もうとする女を力ずくで犯すためなのではないだろうか?
性交という行為を、人はしばしば『愛し合う』と表現する。
愛し合う?
いや、わたしにはそうは思えない。それどころか、その行為はほとんど暴力的なものだとさえ感じている。
男たちは、わたしたち女に力ずくでのしかかり、力ずくで女を押さえ付け、力ずくで女の肉体を押し開き、力ずくで突き刺し、力ずくで貫く。女たちの髪を抜けるほど強く鷲摑みにし、乳房に跡が残るほど激しく揉みしだき、荒々しく乱暴に唇を貪り、硬直した男性器で嫌というほど執拗に子宮を突き上げる。
それらの行為のどこに、愛があるというのだろう?女という性に対する慈しみが、どこにあるというのだろう?
程度の違いこそあれ、男たちの多くは性交時に、女を支配し、征服するという、サディスティックな快楽を覚えているはずだ。
それに対し、力ずくで支配され、征服された女にできることは、あまりにも少ない。
わたしたち女にできること、それは・・・・・・喘ぎ、悶え、呻き、悲鳴を上げること・・・・・・それから、もうひとつ・・・・・・その苦痛と恥辱と屈辱の中に、マゾヒスティックな快楽を見いだそうとすること・・・・・・それだけだ。
女に悲鳴を上げさせ、女を征服し、支配するという男の快楽​──。
男に悲鳴を上げさせられ、男に征服され、支配されるという女の快楽​──。
男のせいでも女のせいでもない。それはすべて、男女の肉体的な構造に由来するものなのだ。
そんなふうに考えるわたしは・・・・・・やはり、どこかおかしいのだろうか?

(大石圭『甘い鞭』角川ホラー文庫 2009.5)




3/7(月)


小説を書いた




3/8(火)


冬のような寒さだった


・ペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』(訳:元吉瑞枝 同学社 2002.11)

エリアス・カネッティ『眩暈』(訳:池内紀 法政大学出版局 2004.12)

・トーマス・ベルンハルト『ふちなし帽 ベルンハルト短篇集』(訳:西川賢一 柏書房 2005.8)

ハイナー・ミュラー『指令』(訳:谷川道子 論創社 2006.7)

・フォルカー・ブラウン『自由の国のイフィゲーニエ』(訳:中島裕昭 論創社 2006.6)

マイケル・オンダーチェ『アニルの亡霊』(訳:小川高義 新潮社 2001.10)

皆川博子『ジャムの真昼』(集英社 2000.10)

を借りた。




3/9(水)


もう何も望むものなどなくて何とか幸せだということは稀で、大抵は、何も望むものなどなくて少し不幸せなのである。



「わたしはいつも強くなければならなかったけど、弱いままでいたいというのが、わたしの一番望んでいたことなのよ。」



ただ単に存在していること、それが、拷問に等しい苦痛になった。



イメージが形成されるや、イメージは、もうイメージすべきことなど何もないことに突然気づき、ただちに崩壊する。

(ペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』元吉瑞枝 同学社 2002.11)




3/10(木)


おれには、何も/何も見えない。何という鉛の空だ
おれたち自身が空模様を決めるようになってから、ずっとこうだ/ずっとこうだ。
この空は鉄の壁のように、言葉を
はね返す。

(フォルカー・ブラウン『自由の国のイフィゲーニエ』中島裕昭 論創社 2006.6)



バルバドスでひとりの農場所有者が奴隷制の廃止後二ヶ月目に殴り殺された。彼が解放してやった奴隷たちが彼の所にやってきたの。そして教会でするように跪いた。彼らが何を望んだかわかる?奴隷制の庇護の下に戻ることだったのよ。それが人間というもの。人間の最初の故郷は、母親という監獄なの。

(ハイナー・ミュラー『指令』谷川道子 論創社 2006.7)




3/10(木)


小説を書いた




3/11(金)


学問と真実とは、キーンにとって同一の概念であった。人間から遠ざかるほどに真実に接近する。日常とは虚偽を浮動させるさざ波だ。

(エリアス・カネッティ『眩暈』池内紀 法政大学出版局 2004.12)



神よねがはくは我をすくひたまへ、大水ながれきたりて我がたましひにまでおよべり われ立止なきふかき泥の中にしづめり、われ深水におちいる、おほみづわが上をあふれすぐ われ歎息によりてつかれたり、わが喉はかわき、わが目はわが神をまちわびておとろへぬ

(『文語訳旧約聖書Ⅲ 諸書』岩波文庫 2015.10)

日記 2/26-3/4

2/26(土)

私は嫌いなもののあいだで選択を強いられる。──夢か、それとも、行動か。夢は私の知性の嫌うものであり、行動は私の感受性の憎悪するものだ。行動か、私は行動のために生まれた人間ではない。それとも、夢か。だが、夢のために生まれた者など誰もいないのだ。
結局、どちらも嫌いなので、どちらも選ばないことになる。しかし、夢見るか、行動するか、どちらかを選ばねばならない状況も起こる。そこで、私はこの二つを混ぜてしまうのだ。

(フェルナンド・ペソア『新編 不穏の書、断章』訳:澤田直 平凡社ライブラリー 2013.1)




2/27(日)

生には春の終りのヒステリーのようなものがある。

(E.M.シオラン『涙と聖者 新装版』金井裕 紀伊國屋書店 2021.5)




2/28(月)

マイケル・オンダーチェ『アニルの亡霊』を買っているおばあさんがいた。『戦下の淡き光』は知っているだろうか。




2/28(月)

鴨長明方丈記』(訳:蜂飼耳 光文社古典新訳文庫 2018.9)

尾崎豊『白紙の散乱』(角川文庫 1993.4)

大江健三郎『死者の奢り・飼育 改版』(新潮文庫 2013.4)

大江健三郎『空の怪物アグイー 改版』(新潮文庫 2002.9)

魯迅『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇 吶喊 改版』(訳:竹内好 岩波文庫 2006.5)

吉行淳之介砂の上の植物群』(新潮文庫 1998.10)

北杜夫『夜と霧の隅で』(新潮文庫 1963.7)

を買った。




3/1(火)

冬が終わる




3/2(水)

友達に会った。元気そうでよかった。




3/3(木)

皆川博子『愛と髑髏と』(角川文庫 2020.3)を買った。「悦楽園」目的で買ったので、買ってすぐ読み始めた。


あなたのために何もできない私は、せめて、私の苦痛、私の傷をあなたに捧げているのです。

(皆川博子『悦楽園』)




3/3(木)

梅の花をみた。匂いがわかる。




3/4(金)

デュルタルは言う。「ともかく、研究する興味のあるのは、聖者と極悪人と狂人だけだ。話題にする価値のあるのはこの三者以外にはない。思慮分別ある人間は、要するに無価値だ。なぜならば、彼らは退屈きわまるこの人生の永遠の頌歌を反復しているにすぎないからだ。彼らは俗衆だ。多少の知恵を持っているとはいえ、要するに俗衆だ。おれにはそんなものはうんざりだ!」

(ユイスマンス『彼方』田辺貞之助訳)




3/4(金)

現実を凌駕する残酷を書こうとしなければ創作の意味がない

日記 2/19-2/25

2/19(土)


皆川博子『ゆめこ縮緬』(角川文庫 2019.9)を買った。皆川博子も絶版がたくさんあるから、復刊してほしい





2/19(土)


主体的な餓死は自殺の範疇に入るのだろうか?





2/19(土)


寛容なのではなく臆病なだけ、という不意に浮かんだ文章が取り付いて離れない





2/20(日)


マッコルラン『アリスの人生学校』が気になっているが、これもまた絶版





2/21(月)


追われる夢をみた





2/21(月)


「地獄を信じてるの、フスティナ?」
「ああ、天国もね」
「わたしは地獄しか信じないわ」そういって瞼を閉じた。

(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃、増田 義郎 岩波文庫 1992.10)





2/21(月)


ホフマン『黄金の壺』(訳:神品芳夫 岩波文庫 1974.5)を買った





2/22(火)


言葉を額面通りに受け取ることができない





2/22(火)


トーマス・オーウェン『青い蛇 十六の不気味な物語』(訳:加藤尚宏 創元推理文庫 2007.5)を買った





2/23(水)


「愛に情熱なんかいらないわ、素直な気持ちが損なわれるだけよ。私は嘘をつく男しか許せない。愛の神秘なんて嘘だけだもの」

(カルロス・フエンテス『略奪』)





2/23(水)


・ヴォルフガング・ヒルデスハイマー『詐欺師の楽園』(訳:小島衛 白水Uブックス 2021.9)

ウラジーミル・ナボコフ『賜物』(訳:沼野充義、小西昌隆 新潮社 2019.7)

を借りた



フランツ・カフカ『変身』(訳:川島隆 角川文庫 2022.2)を買った





2/24(木)


苦しみによって損なわれないこと、というが、そもそも自分が損なわれない程度の打撃を苦しみと呼べるだろうか?





2/25(金)

よしあしの 文字をもしらぬひとはみな まことのこゝろなりけるを 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり

(善し悪しという文字も知らない人々はみんな、真実の心を持つのに対し、善悪という文字を知っているような顔つきの人々は、大きな嘘をついているのである)

───親鸞





2/25(金)


世界の本質は理不尽さだ。そして理不尽さの本質は無差別性だ


無差別に殺されるということ。その悲惨を正視すれば、私一個人の不遇や不幸など取るに足らないことだ。嘆くにも値しない、どうでもいいことだ

日記 2/12-2/18

2/12(土) その1

不幸になるかもしれないということを愛さなければならない。

(シモーヌ・ヴェイユシモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』今村純子 河出文庫 2018.7)




2/12(土) その2

美しいものは、最初から美しかったのだろうか?そして、永遠に美しいのだろうか?




2/13(日)

・『怪奇小説傑作集 新版 1 英米編Ⅰ』(訳:平井呈一 創元推理文庫 2006.1)

・『怪奇小説傑作集 新版 4 フランス編』(訳:青柳瑞穂、澁澤龍彥 創元推理文庫 2006.7)

・ゴーチエ『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』(訳:田辺貞之助 岩波文庫 1982.3)

・ハリー・クレッシング『料理人』(訳:一ノ瀬直二 ハヤカワ文庫NV 1972.2)

を買った。




2/14(月)

・ハンス・ヘニー・ヤーン『岸辺なき流れ(上・下)』(訳:沼崎雅行、松本嘉久、安家達也、黒田晴之 国書刊行会 2014.5)

・カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(訳:寺尾隆吉 水声社 2015.3)

を借りた。




2/15(火)

梅崎春生の誕生日だった。




2/16(水) その1

死はあらゆる可能性を閉ざすのか?

(カルロス・フエンテス『忘却の線』)




2/16(水) その2

閻連科『心経』(訳:飯塚容 河出書房新社 2021.7)を借りた。3分の1くらい読んだけれど、かなり面白い。


ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』(訳:伊東守男 ハヤカワepi文庫 2002.1)を買った。訳者違いで既に持っているけれど、訳者違いで蒐集するのが好きだから。




2/17(木) その1

詩を書いた。




2/17(木) その2

悲しみの底にいながらエクリチュールにしがみつくことさえできなくなったそのときに、「鬱病」は始まるのだろう。


「どこにいてもうんざりする」


喪の断続的な性質が、どうしてもわたしをおびえさせる。


だれに(答えを期待して)この質問をできるだろうか?
愛していたひとがいなくなっても生きられるということは、思っていたほどはそのひとのことを愛していなかった、ということなのだろうか・・・・・・?


わたしの悲しみが還元されること──キェルケゴールによると、一般化されること──には耐えられない。まるで剽窃されているみたいではないか。


喪は、弱まらない。磨耗もしないし、時間の作用も受けない。混沌として、不安定で、最初の日も今もおなじように鮮烈な(悲しみの/生涯の愛の)ときなのだ。

(わたしという)主体は、現在のものにすぎない。現在にしかいない。こうしたことすべては、精神分析に反する。十九世紀的なもの、すなわち「時間」や転位の哲学や、「時間」による変化(治癒)、そして有機体論に反する。


いまでは、ときおり、泡がはじけるように不意に、わたしのなかで湧きおこってくる。彼女はもういない、もういない、永久に完全に、という事実確認が。それは、くすんでいて、形容することができない──めまいを起こさせる。なぜなら、なにも意味しない(解釈がありえない)からだ。


わたしの喪を言い表せないのは、わたしがそれをヒステリックに語らないことからきている。とても特殊な、持続する不調だからである。


​──すべてがわたしを傷つける。ささいなことが、見捨てられたという思いをわたしのなかにひきおこす。
ほかの人たちのことが耐えがたくなっている。ほかの人たちの生きる意欲や、ほかの人たちの世界が。ほかの人たちから遠いところに隠遁する決断に心ひかれている


わたしの世界は、くすんでいる。そこでは、なにもほんとうに響かない──なにも結晶化しない。


わたしをひどく苦しめるものと、わたしの感情を抑えつけるものとを、同時に癒すことはできない(苦悩にたいしては、ヒステリックにゆさぶりをかけることはまったくできない、なぜなら勝負はついているからだ)。


わたしは孤独を欲してはいないが、必要としている。


​──寛容の欠如という、やっかいな(不愉快で、落胆させられる)感情。そのことに苦しむ。


喪は、変わることはないが、散発的であるとわかった。喪は磨耗しない。なぜなら、持続したものではないからだ。

会話の中断や、うっかりと話がべつのものにとぶことが、社交上の喧騒や不快から生じるときには、鬱状態はひどくなる。だが、そうした「変化」(散発的なものを生みだす)が、沈黙や内面に向かうときには、喪の傷は、より高度な思考へと移行してゆく。(逆上の)下品さは、(孤独の)気高さとは違うのだ。


わたしたちは、仕事に追われて、忙しくし、外から刺激を受けて、外在化しているときにこそ、悲しみがもっとも大きくなる。内面性、静寂、孤独などのほうが、苦しみを少なくするのである。


「時間」とともに、喪は和らげられるものですよ、とよく言われる(パンゼラ夫人がわたしにそう言った)。──いや、そうではない、「時間」によって何も移ろったりしないのだ。喪による涙もろさが移ろってゆくだけである。


感情(涙もろさ)は過ぎ去るが、悲しみは残る。


涙もろさ(和らいでゆくもの)と、喪や悲しみ(いまここにあるもの)との、(おそるべき)区別をまなぶこと。


きのう、ダミッシュに説明した。涙もろさは過ぎ去りつつあるが、悲しみは残っている、と。──彼は言う。いや、涙もろさはもどってくるよ、今にわかるから。


じつは、結局のところ、といつもこうだ。まるでわたしが死んでいるかのように。


こんどは何を失わねばならないのか。わたしは、生きる「理由」を──だれかのことを心配する「理由」を──失ってしまったというのに。


絶望。この言葉は演劇的すぎる。言語活動の一部をなしている。


思い出すために書く?自分が思い出すためではなく、忘却がもたらす悲痛さと闘うためだ。忘却が、絶対的なものになるであろうかぎりは。──やがては──どこにも、だれの記憶にも、「もはやいかなる痕跡もなくなってしまう」ということ。


わたしはイマージュではなく、イマージュの理屈をこねまわすことを求めていたのだ。


起こってしまったことへの恐怖に苦しむ。


愛とおなじように喪も、非現実性や執拗さによって、世間や社交的なものとぶつかる。わたしは世間に抵抗する。世間がわたしに求めるものや、求めること自体に苦しめられる。わたしの悲しみ、渇き、混乱、いらだちなどを世間は増加させる。世間はわたしを落ちこませる。

(ロラン・バルト『喪の日記』石川美子 みすず書房 2009.12)




2/18(金) その1

信仰とは、他人のためになればなるほど価値が上がるものだ。信仰が他人のためのものではなく、自分だけのためのものだったら、この世に宗教が存在する意味はなくなる

(閻連科『心経』飯塚容 河出書房新社 2021.7)




2/18(金) その2

河野多惠子『みいら採り猟奇譚』(新潮文庫 1995.10)

ヘミングウェイ日はまた昇る』(訳:高見浩 新潮文庫 2003.6)

ヘミングウェイ日はまた昇る』(訳:谷口陸男 岩波文庫 1992.12)

を買った。




2/18(金) その3

怯え。恐れというより怯え。間歇的な怯え。ほどなくして眩暈。浮動性の眩暈。倦怠。どうしようもない倦怠。意味を剥ぎ取られた生。無機質な生。機械的な愛と祈り。罪は日ごとに増えていく。