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灰色の記憶

詩を書いている理由

何を書くかより誰に伝えるか(あるいは誰に宛てるメッセージでもない)、同じこと、あるいは似たようなことを言う人がいるとき、対象が内容に先立つようであってほしくて、そうでないと解釈やニュアンスはおろか、その人のバッググラウンドまで潰されて無かったことにされてしまう。

だから脚色でも改竄でもなんでもいいから、自分の雑念や情念を詩として昇華するしかなかった。詩の中ならすべてが許されるから。いくら自分を捏ねくり回したところで自分がどういう人間なのかが見えてくるわけじゃないから、自分の残骸を詩として保存することであらゆる人格を可視化、あるいはそれぞれの解像度を上げて、自分という容器のなかにその都度インストール、アップデートしていく。

私は人格が2つ以上ある人間より、1つしかない人間(そんな人は滅多にいないと思うけれど)の方が生きづらいように見えてしまう。人格ではなく仮面と言った方が分かりやすいだろうか。何枚も仮面を持っている人はすべての仮面が切り札であり、自分の味方であり、また自分になり得るのである。

だから誰に詩の内容を悪く言われようと本体の自分の解像度さえ未だ低い私がどの自分(人格)がどういった理由で否定されているのか分からないし、自分以外の人間に向けて書いているわけじゃないからどうでもよくて、「私の創作物」、言わばその「内容」が否定されたところで痛くも痒くもない。生活そのものがフィクションと隣り合わせだから傷つく感覚が日に日に麻痺しているように思う。それでも傷つけば傷つく分だけ傷つけ方は否が応でも上達していく。それを理性で隠蔽している人間の性を誰かが優しさと呼び美徳とする。余計なお世話だ。

私は詩を書く(自分を分析する)「行為」そのものと「対象」の2つを何よりも重く見ている。自分のためにしか詩を書いていないというのにはそういった意図...意図というより本能なんだろう。はじめはそういう意識はなかったものの、いつの間にか創作というより生活の一部になっていた。本当に精神が逼迫しているときは詩を書いている、というより詩に書かされていると言った方が近い時もある。

自分の口から、指先から紡がれる言葉。それが嘘であろうと真実であろうとどうでもいい。どちらでも構わない。嘘も真実も人を傷つけるのだとしたら何も言わずに黙っている方がいいのかもしれない。だけれど私にとって黙っている、手を止めていることは死んでいるのと同じだ。私は正直言ってまだ死にたくはない。詩人は沈黙することを好まない。私にとって詩は自分に対する自分のための、唯一の延命方法だから。

私は死ぬまで、詩を書き続けたいと思う。