ph1los0phy

灰色の記憶

不連続日記 12/25-12/31

12/25(金) 天気:晴れ

自分と同じような境遇にいる人を見かけると、好意的な感情を抱かずにはいられなくなる。その機序は単純で、「ああ、自分だけじゃなかったんだな」という安心感から来るものだろう。ただ、従来の孤独感がすこしばかり希釈されるだけで、根本的問題の解決の手掛かりになるということはまずない。自分ひとりでも解決できること、というのは勿論あるのだろう。あるべきだ。ただ、問題は「それはひとりでも解決できるよ」「それはひとりだと限界があるし、難航するよ」ということを教えてくれる人がいないということだ。自分ひとりでは殆どの場合それに気づくことができずに判断や選択を見誤りつづける。そしてそれを指摘して軌道修正してくれる人というのもよほど信を置かれている関係の相手ではない限りしてはくれないだろう。自分の裁量で自分を断罪すると何が起きるか。他の人にとっては瑣末なことまで重大で致命的なことのように見なし、背負いこんでしまうのだ。大体の問題は齟齬や誤謬、自己不信や自己欺瞞から起こりうるものだと思う。それらを完全に無くすことはできなくても、次第に減らし、苦痛を和らげることくらいはできるだろう。そしてそれは、自分を正しく見つめ、正しく受け入れることに繋がるのだと思う。


12/28(月) 天気:くもり

言葉の意味、行動の意味、存在の意味。何かの意味について考えることは疲れる。なぜ疲れるのか。それは終点がないから。誰も解答を提示してくれないから。すべてが合っているとも、間違っているとも言えないから。自分が大切にしていることは周囲にあまりひけらかすべきではないと思う。価値が下がるから。それでも孤独に耐えられない人間は、自分の存在をどうにかして外部に主張したがる。孤独によって培われたものを台無しにするか否かは自分次第だ。


12/29(火) 天気:くもり

男なのに、女なのに、子供なのに、大人なのに…「なのに」ばっかり。そんな言葉は使わないでほしい。わたしは使わないように気をつけている。なぜなら、単純に失礼だから。自身の偏見を恰も大衆の総意のように振り翳す時に使う言葉の代表格だから。誰にだって差別感情はある。ただ、それを行動で、言葉で表してしまったら最後、信用は失墜するとわたしは思う。自身の差別感情と上手く付き合えない、制御できない人を信用したい人なんて誰もいない。良心の呵責の良心がそもそもないのだろう。


12/31(木) 天気:くもり

詩を書き始めたのは、去年からだった。忘れもしない、去年の4月10日。ここまで書き続けるなんて自分でも思っていなかった。きみがここまで書き続けるとは思わなかったよと、詩を教えてくれた人に言われたものだ。いつからか詩は生きる手段になった。それをしていないと、生きていけなくなった。自分の為だけに書き、自分を生かしていた。

去年書いた詩の数は198、今年書いた数は354だった。今年は倍近く書いた。多く書いたからなんだという話になるが、その数がそのまま自分と向き合ってきた回数なんだと思うと、ああ、よくやってきたなあ、と我ながら思う。傷つくことを、誰よりも恐れているのにね。

来年も書くつもりだ。再来年も書くつもりだ。死ぬまで書くつもりだ。それがそのまま反映される。言葉と、心と、人間であることに向き合ってきた回数に反映される。向き合ったから何なんだと。知らないよ。それしかわたしがわたしでいられる方法がないんだ。だから書き続ける。笑われたって書き続ける。誰かの記憶に残る詩を書き続けるよ。生きてる限り。