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灰色の記憶

日記 9/10-9/16

9/10(土)

葬儀2日目。

 

 

 

9/11(日)

23歳になった。

 

 


9/11(日)

私たちが鏡であるとは、私には鏡を見ることができないということだ。

(合田正人『フラグメンテ』法政大学出版局 p4)

 

 

 

9/12(月)

通話した。楽しかった。

 

 

 

9/13(火)

通所19日目。

 

 


9/13(火)

マルセル・プルースト失われた時を求めて 第一篇 スワン家の方へ Ⅰ』(鈴木道彦訳 集英社 1996.9)

・『遠い女 ラテンアメリカ短篇集』(国書刊行会 1996.10)

・『アルトー後期集成Ⅲ』(河出書房新社 2007.6)

を借りた。

 

 


9/13(火)

私たちをとりまいている事物の不動性は、ひょっとすると、その事物がそれであって他のものでないという信念、つまりそれらを前にしたときの私たちの思考の不動性によって、押しつけられているのかもしれない。

(マルセル・プルースト失われた時を求めて 第一篇 スワン家の方へ Ⅰ』鈴木道彦訳 集英社 p25)

 

 

 

9/14(水)

私の心のなかでも、永久につづくと思っていたたくさんのものが崩壊し、新たなものが建設され、それが、以前には予想もつかなかったような新たな苦痛と喜びを生みだした───ちょうど昔の苦痛や喜びが今は理解困難になってしまったように。

(マルセル・プルースト失われた時を求めて 第一篇 スワン家の方へ Ⅰ』鈴木道彦訳 集英社 p73-74)

 


その本質は私の内部にあるのではなくて、それが私自身であった。

(p86)

 


真実を見つけるのは精神の役目だ。しかしどうやって見つけるのか?深刻な不安だ、精神が精神自身も手のとどかないところに行ってしまったと感じるたびごとに生じる不安だ。精神というこの探求者がそっくりそのまま真っ暗な世界になってしまい、その世界のなかでなお探求をつづけねばならず、しかもそこではいっさいの持ちものがなんの役にも立たなくなってしまうようなときの不安だ。探求?それだけではない、創造することが必要だ。精神はまだ存在していない何ものかに直面している。精神のみが、その何ものかを現実のものにし、自分の光に浴させることができるのである。

(p87)

 


ある存在の魂が、その存在を通して働きかける美徳と無関係である(少なくとも一見そう見える)という事実は、そのものの美的価値以外に一つの現実を、心理的現実とは言えなくとも少なくともいわゆる人相学的な現実を備えているのだろう。

(p152)

 

 

 

9/15(木)

無力感と全能感が絶えず入れ替わる。それらを媒介しているものの一つが、死だった。

 

 

 

9/16(金)

通所20日目。