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灰色の記憶

日記 9/17-9/23

9/17(土)

池袋。人と会った。私をふくめて3人。水族館にいったり、パフェを食べたりした。とても楽しかった。また会おうね。

 

 

 

9/18(日)

雨。

 

 

 

9/19(月)

慢心によって疲弊するとともに、その慢心によって生かされていた。

(ナタリー・スコヴロネク『私にぴったりの世界』宮林寛訳 みすず書房 p71)

 


カオスはいつも単純な物事から発生する。一本の毛糸みたいに、少し間違えるとごちゃごちゃに絡まってしまう。

(李屏瑤『向日性植物』李琴峰訳 光文社 p94)

 

 

 

9/20(火)

通所21日目。

 

 

 

9/21(水)

・多田智満子『鏡のテオーリア』(ちくま学芸文庫 1993.9)

古井由吉『辻』(新潮文庫 2014.5)

 

を買った。

 

 

 

9/22(木)

見慣れた文字列はもはや標識に見える

 

 


9/22(木)

ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためである、
これは私が事物について抱いている考えではない、
私にとっては入ることではなく事物の外に出ることが問題なのである、
ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
溶けて、他処から解放されること、
溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
もはや知ることなく、
実在してしまうことを断念すること、
それならもはやけっして苦しむことはない、
選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
ところで、そういったことすべては馬鹿げている。

(『アルトー後期集成Ⅲ』河出書房新社 p20-21)

 


共通の尺度をもったバランスのなかに作用-反作用を想定することは、あり得べき崩壊の二者択一を認めることでもある。

(p39)

 


大衆は観念が好きではないと見なされているが、それは噓をついている、というのも観念を押し付けたのは大衆であるからだ。

(p47)

 


大衆は意識と思考をもっていないと見なされている、ところが、そんなことはない、大衆ほど精神性=霊性を愛するものはないのだ。

(p48)

 


毒とは、追放され、出発することに絶望している存在のねじれである。

(p58)

 


愛、名誉、自由、あるいは真理という
観念ほどひとりの人間を他の人間から隔てるものはないというのに。

(p68)

 


苦痛がそれ自身のうちで持ちこたえられず、しかし外に抜け出し、
そしてあらゆる観念の外に宙吊りになるくらいの
苦痛の一点へといたるまで、時間の力を強調すること、
しかしそれは死ぬのだ、
だから私の不幸とは、私の身体が耐えることのできなかった
あまりに強すぎる苦痛を
私がある日自分自身に課したことから生じたにちがいない
そして
そして私の身体は吹っ飛んだ、
それを地獄のすべての存在が利用して
私に飛びかかり
私はそれらを完全には支配できなかった
そして私はまさに絶対無限の苦痛に耐えてさえひとつの身体を再び見出さねばならなかったのである、
それはいまやなされた。
まだこれから私には憤激を鎮める仕事が残されている。
というのも活動を始めた存在たちを
私が吹っ飛ばしたとき、
存在たちはある日活動を開始したのだが、
善意をもって、私を愛そうと願ったはずの者たちは、他のものたちに抵抗できるほど十分な年齢と数を備えてはいなかったからである、
つまり名前のない獣どもの地獄に抵抗できるほどには
(名前のない獣どもは全人類を侵略した、と伝説は語っている)
ところが、ちがうのだ、それは間違っている、
人間たちが獣を食って、獣で腹を満たしたのだ
(永遠に生きるために)。

(p80-81)

 


私の真の状態は、じっと動かないものであり、人間の生と瞞着のはるか彼方にある、
それがひとりきりでいるとき、それこそが私の身体の状態なのだ。

(p82)

 

 

 

9/23(金)

通所22日目。