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灰色の記憶

夏の終りのカルテット

二週間に一度だけ図書館を訪れています。


単純に本の貸出期限が二週間だからです。


こういう期限というものは往々にして鬱陶しかったり、人を焦らせたりしますが、そこにまた来てもいいという口実にもなるので悪くないですね。


もっとも、これが友人と交わす約束だったりすると尚よろしい気もするんですが。ええ、個人的にですよ。


閑話休題、今日は返却日だったので、返却ついでにまた借りる本を見繕ってきました。


こんな事を言うのもどうかという気がするのですが、私は読んでいる時より選んでいる時の方が好きです。いや、どうだろう。同率かなあ...。


でも私にはどちらも「冒険」という感覚がします。良くも悪くも、自分さがしという側面があるのではないでしょうか。未知の世界の開拓、未知の自分との交感。内に秘めたる核の涵養。大袈裟ですかね。


私は書店でも古書店でも図書館でも、いつも五十音順に見ていくのですが(文学コーナーに限ります)、いつもの通り、先頭の「あ行」からタイトルやらジャケットやら、裏表紙のあらすじやらで物色していると、本と本のあいだに挟まっている紙のようなものを発見しました。


手に取ってみると、それは自動貸出機で発行される、借りた書籍と返却期限が印刷されている紙でした。きっと、それを栞がわりか何かにしていて、返却時に抜き取るのを忘れてしまったのでしょう。顔も名前も知らない人が何を借りたのか気になって、私はその紙をまじまじと観察してしまいました。


そこには、「あさのあつこ」と「井伏鱒二」の名がありました。ははあ、さては私と同じように五十音順に見繕っているタチだな、と憶測を巡らせつつも、人の頭の中を覗き見しているようで、なんとも言えない罪悪感と共感性羞恥に襲われました。その二人の名は古本屋に従事していた私が知らないわけはありませんでした。あさのあつこはだいぶ前に「ナンバーシックス」という小説を買って、まだ読んでいません。井伏鱒二は太宰の友人です。詩集だけ一冊持っています。


私は純文学も現代文学も分け隔てなく読むようにしているので、こういう借り方は良いなあ、と思いました。前回自分もこんな借り方をしたのを思い出して、気恥ずかしくなったかたわら、親近感を覚えました。


私は今回は現代作家一辺倒で、江國香織川上未映子、三秋縋、最近の人から宇佐見りん、という方の小説を借りました。


物色していると最近出たばかりの書籍もちらほら棚に隠れていて、経緯はどうあれ寄付した方に感謝の情が湧くものです。


書店で新品を買うよりかは古書店で古本を買うのが好きで、線が引かれていたりするものが特に好物です。残念ながら、こういう類の印が人為的に施された本は受け取れないというのが図書館の決まりだそうです。


本がある空間が私は好きなんだなという事を再認識しながら、借りた本の数だけ重さを増した鞄を背負って家路に着きました。


蝉、からす、ひぐらしツクツクボウシのカルテットを全身に浴びながら夕暮れの下を自転車で漕ぐのは、晩夏の哀愁をひしひしと感じさせられるものでした。


次の返却日には残蝉が鳴いていて、夏の面影を感じる初秋になっている事を願い、私は今日も物語の中に身を沈めます。