5/14(土)
なにかを善だと認めたのなら、これを捕えようと欲すべきだ。そうせずにいるのはたんなる怯懦である。
(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(下)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p68)
まがいの無限性を追い求めずにいられない刑罰。これは、地獄そのものである。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳 ちくま学芸文庫 p117)
どんな嫌悪をも、自己への嫌悪にかえること……
(p292)
5/14(土)
・ピエール・ルヴェルディ『死者たちの歌 詩集』(佐々木洋訳 七月堂 2021.8)
・福永武彦『廃市』(P+D BOOKS 2017.7)
・『金井美恵子詩集』(現代詩文庫 1973.7)
・木田元『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫 2000.1)
を買った。
5/14(土)
愛することと愛されることのどちらが崇高だろうか?
5/14(土)
4年ぶりに恩師に会った。
また会いましょう。
5/15(日)
私は、物語の洪水の中に住んでいる。
(太宰治「秋風記」)
昨日の酔いが少し残っている気がする、俺は滅多に酒を飲まない人間だからしばらく飲まないうちに弱くなったのか。
5/15(日)
ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』(生島遼一訳 新潮文庫 1953.8)を買った。
・マリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』(八重樫克彦、八重樫由貴子訳 作品社 2011.1)
・ミルチャ・カルタレスク『ノスタルジア』(住谷春也訳 作品社 2021.10)
を借りた。
降らないと思っていた雨が降ってきて全身ずぶ濡れになってしまった。
5/16(月)
北村透谷の命日だった。25歳で縊死したと書いてある。
草の葉末に唯だひとよ。かりのふしどをたのみても。さて美い夢一つ、見るでもなし。野ざらしの風颯々と。吹きわたるなかに何がたのしくて。
(北村透谷「露のいのち」)
5/17(火)
愛することなく讃えることができようか。賞讃が愛の一種であるなら、なにゆえ善ならざるものをあえて愛そうとするのか。
(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと(下)』冨原眞弓訳 岩波文庫 p71)
善は、ただひとえに、ある種の条件が地上で真に実現した比率にのっとって、天から地上に降りてくるのだ。
(p124)
権利を所有するとは、それを善用する可能性と悪用する可能性をふたつながらに含意する。逆に、義務の遂行はつねに無条件にあらゆる点でひとつの善である。
(p144)
自分を所有物とみなす相手に捧げられる奴隷の献身は浅ましくも卑しい振る舞いだ。自由な人間に全身全霊を放棄させ、完全なる善を構成するものへの服従をうながす愛は、隷従的な愛の対極にある。
(p144)
神は世界の秩序を侵害する。生じさせたいものを出現させるためではなく、結果として生じさせたいものを導きだすような原因を出現させるために。
(p146)
神のはたらきの徴を宇宙にみいだそうとする試みは、神自身を完了形で限定的な善とするものだ。これは瀆神にほかならない。
(p148)
起こらないことはすべて同程度に神によって阻止されている。起こることはすべて同程度に神によって許容されている。
(p150)
5/17(火)
誰も必要としたくない。誰にも必要とされたくない。こうして生への渇望が失われていく。
5/18(水)
政治哲学を調べていた。
5/18(水)
愛するものたちを全て数え上げるとき 私は本当に遠くにいる
(ピエール・ルヴェルディ「二重鍵をかけて」佐々木洋訳)
5/19(木)
中条省平『カミュ伝』(インターナショナル新書 2021.8)を買った。
5/19(木)
「汝、なすべし」と「汝、なすべからず」という命令の背後には、「さもなくば」という脅しが控えています。報復する時、コミュニティの一致した意見、あるいは良心が、制裁を加えると脅すのです。こうしたものがみずからを罰すると脅すのです(これは改悛と呼ばれます)。
(ハンナ・アレント『責任と判断』中山元訳 ちくま学芸文庫 p128-129)
「汝、なすべし」とか「あなたはそうすべきである」という命令にたいしては、「わたしはどんな理由があろうとも、そんなことはしない、またはできない」と言い返すことができるのです。いざ決断を迫られたときに信頼することのできた唯一の人々は、「わたしにはそんなことはできない」と答えた人々なのです。
(p130)
自分を愛することができるという奇妙な観念は昔からあるものですが、この観念はわたしがほかのもの、さまざまな事物や人々に傾向性を向けるのと同じように、自己にも傾向性を向けることができるということを前提としているのです。
(p135)
5/20(金)
・ジョナサン・コット『奪われた記憶 記憶と忘却の旅』(鈴木晶訳 求龍堂 2007.10)
・ジョン・ロック『ロック政治論集』(山田園子、吉村伸夫訳 法政大学出版局 2007.6)
を借りた。
5/20(金)
もしわたしが他の人々と意見を異にするならば、相手との議論をやめて歩み去ることができます。でもわたしは自己と議論をやめて歩み去ることはできないのです。ですからほかのすべてのものを考慮にいれる前に、まず最初に自己と意見が一致するように努めるのが望ましいのです。
(ハンナ・アレント『責任と判断』中山元訳 ちくま学芸文庫 p149)
チュートンの民の神オーディンは、二羽のカラスを飼っていた。一羽の名は「思考」、もう一羽は「記憶」。オーディンは毎朝、明け方にカラスたちを空に放ち、下界で何が起きているかを偵察させた。夜になると、カラスたちはねぐらに帰ってきて、夜通し、見たもの聞いたものすべてをオーディンに詳しく話した。ある日、オーディンの頭を疑問がよぎった。一方のカラスしか戻らなかったらどうなるだろうか。生きていくのにどうしても必要なのは、どちらのカラスだろうか。そしてオーディンはさとった。「思考」がいなくとも生きていけるが、「記憶」がいなくては生きていけないということを。
(北欧神話)
思い出されない夢なら、見ないほうがましだ。
記憶がなかったなら、眠っていたほうがましだ。
記憶がなかったなら、人生を生きてこなかったようなもの、あるいは、別の誰かがその人生を生きてきたようなものだ。
記憶がなかったなら、自分が誰だったのか、自分がほんとうは誰なのかを知るのはむずかしい。
記憶がなかったなら、今は思い出せないかつてのあなたが誰だったのかを知ることは困難だ。
記憶がなかったなら、自分自身やあなたの人生の物語とのつながりを失ってしまう。
記憶がなかったなら、他の人たちと分かち合った過去の経験の人間的つながりを失ってしまう。
記憶がなかったなら、かつて経験したことのある喜びや悲しみの感覚を思い出したり、再び味わったりすることができない。
記憶がなかったなら、忘れてしまった過去の行動に責任をもつことはむずかしい。
記憶がなかったなら、未来へとつなげるために、過去と現在を結びつけることはむずかしい。
記憶がなかったなら、内的世界と外的世界を、混乱と断絶と場所として経験する。
記憶がなかったなら、あてもなくさまよい、道に迷う。
(ゾハール)